サーフ・ポイント


   中心の気圧は920ヘクトパスカル、最大瞬間風速65メートルの巨大タイフーンが、直ぐ側までやって来ていた。


天地創造の神に呪われたかのような濁った大気は不穏に蠢き、海を震わせ人々を恐れさす。
波は生き物のようにうねり、砂浜の侵食を執拗に繰り返していた。
水平線の彼方で沸立つ鼠色の雲は、綿菓子のように次から次ぎへと新たな暗雲を作り出しては、刺客のように僕らの頭上へ送り込んで来た。
 肌に纏わりつく湿った空気は重く不快で、天空から時折疎らに落ちてくる、ダイアモンドの原石に似た雨粒は、棘のようで刺すように痛かった。

 ワクワクするのは波乗りの常で、朝早くから真っ先に海岸に車を乗りつけたのは、僕と親友のコージ、数人のロコサーファーと阪神方面からフェリーで泊りがけでやって来ている連中だった。
「すげぇ波だ、……」
コージが興奮したように、沖合いでとぐろをを巻く波に見とれてそう言った。
「何フィートあるんだろう……、近頃じゃ見かけないでかさだ」
僕は心臓がビビルのと、背中に電流が走るのを感じて息を呑んだ。
「オマイら、まさかあれに乗ろうってバカな考えしちゃいねえよな?」
アキラが海に背を向け、防波堤に凭れて問う。
僕らは同級生で、ガキの頃からずっと一緒につるんでる仲間だ。
社会人になってみんな少なからず苦労し、漸く落ち着いてきたものの、無謀さを捨てきれずにいた。
僕とコージはニヤリと笑い合い、寡黙にボードを抱えると浜へと一歩を踏み出した。
アキラはインチキ祈祷師のように、大袈裟に両手を天に捧げ、風に遮られ呪文のようにしか聞こえない非難を、僕らの背中に投げて寄越した。
 でも、彼以外にも僕らを忌々しい目で見ていた地元の漁師は、彼らの神聖なる領域を侵す、ふざけた侵入者を侮蔑しながら、死活問題であるタイフーンの動向を岸壁から見守っている、言わば彼らは海の先駆者であり、僕は密かに敬意を払ってる。
ふざけてるのは僕らの方だ、恐れを知らない世代はこんな嵐に海に出る。
嘲りとも、諦めとも付かぬ顔で、彼らに見送られながら……。


 もの凄い勢いで波に突き上げられたと思ったら、ジェットコースター真っ青な勢いでうねりの谷底へ一気に落とされると、景色は一変し、そこは海底の砂で濁った深緑色の、壁に取り囲まれたまるで牢獄。
こうなるともう海との戦いだ。
 死にもの狂いで恐怖と戦う自分が少し滑稽でもある。
飛沫が風に飛ばされ、顔に容赦なく降りかかり目が充血するのが分かった。
波はでかかったが極上のループが来るのを僕とコージは付かず離れずの距離で、サーフボードに跨りじっと待っていた。
波浪警報に誰もが尻込みと果敢な勇気を持って取りやめた中、辺りに人影は見当たらず、ますます酷くなるうねりの、地球の底のような海原の真っ只中で、僕らは我慢比べのように弱音を吐くのを躊躇っていた。


「びびってんじゃねえよ」
「どっちが?」
僕は笑って言い返した。
コージは濡れた長い髪の毛が顔に張り付いていて、腕からゴムを外すとそれで束ね直した。
彼はビーチから歩いて三分の距離に住んでいて、十歳の頃から自分の背丈より長いボードを持って歩いてやって来ていた。
僕らは幼なじみでコージの影響もあって、僕が次第にサーフィンの虜になって行くのに時間はかからなかった。
「仕事どうよ?」
コージはマジ顔で唐突に尋ねた。
「何さ?急に、」
僕は笑った。
「いや、しばらく会ってなかったからどうかと思って……」
「変な奴……しがない地方公務員一年生は下っ端だからこき使われてるよ。それこそお前の方は?」
「真面目に親父の店手伝ってるよ。最近やっと秘伝のトマトソースとやらを教えてくれるようになったんだ。たまには来いよ、門外不出のオレの料理食わせてやるよ、」
「おまえ、それって親父さんの許可が降りてないって事だろ?ってことはまだ客に出せる料理じゃないってことじゃん?」
コージはクスリと笑った。
「ひでぇや」 
彼の実家はこじんまりしたイタ飯屋で、この地方ではかなり有名な店だった。
高校時代からサーフィンと喧嘩に明け暮れた息子が、卒業したら店を継ぐと言った時、彼の両親が泣いて喜んだことは言うまでも無い。
そんな店に足が遠のいたのは、何故だか桃夏があまり行きたがらなかったのが原因でもあった。
「桃夏に昨日会ったよ……」
コージは打って変わって急に静かになると、唐突にそう言った。
桃夏は僕の彼女で、一年の国体の時に知り合ってから三年余りになるが、それから僕らはずっと付き合っている。
「へぇ?どこで?仕事休みだったのかな?」
桃夏も又、家業の花屋を姉とやっていて、時間が空くとアレジメントの教室に通って勉強していた。
 何故、急に桃夏の話が出たのだろうか?
何処もここも生物は死んだように灰色に染まっていて、冴えないコージの顔色も、又、例外では無く、遠い砂浜ををぼうっと見つめながら何やら考え込んでいるようだった。
「何だよ」
波は不穏に揺れていた。
嫌な予感がするのはコージの深刻な横顔を見たからだ。
「桃夏、妊娠したって……」
風に漸く聞き取れる位の小声で、コージは呟いた。
「冗談きつい、」
僕はケラケラと笑ったが、コージの形相が崩れる事はなかった。
「二ヶ月だって……」
「有り得ない……」
僕は根拠から否定した。
最近の僕らは仕事が忙しかったり、桃夏のカルチャースクールで中々会う時間が無かったし、例え、会えたとしても桃夏は疲れたと言ってセックスを拒んだ。
況してコンドームは欠かした事は無いが、そう、かれこれ二ヶ月以上経っている。
「絶対に有り得ない……、でもどうしてお前がそんなこと知ってるのさ、」
僕は少し憤慨しながら尋ねた。
コージは遠い目をして、僕を見ていた。
「オレが一緒に産婦人科に行ったからさ」
「どうして?どうしてお前が?」
耳元でヒューヒューと風の音がした。
コージは黙ったまま暫く遠く雨に煙る沿岸を見つめていた。
 僕の心がざわめき始めた。
「桃夏を妊娠させたのがお前じゃなくて、オレだからさ……」
風が止み、波が止まり、僕の心臓も止まった。
何だかコージが遠のいて行く。
「悪ふざけは止せよ……、」
振り絞った僕の声は震えていた。
「一年の夏……、あいつと出会った日、桃夏はオマエを見ていたけど、オレもオマエと同様、桃夏に一目ぼれだった。あれからずっと好きだったんだ。オマエには言えなかったよ、もう結果は出ていたし、オマエは親友だったから……」
急激な気分の悪さは心と比例している。
ボードから落ちないように、しがみ付く手が心なしか震える。
儚い子船のように、揺れる波間で、僕は今にも沈没しそうだった。
「オマエさあ、二ヶ月前、先輩の綾乃さんとこ泊まったろ……、桃夏は泣いてオレのとこに相談に来たさ……」
確かに同僚に飲みに連れられ、悪酔いした僕は綾乃先輩の部屋に泊まった。
ぐでんぐでんに酔っ払っていて、どうやって辿り着いたのかさえ定かではないが、次の朝、目が覚めた時、柔らかな光の中、素っ裸で人形のように美しく横たわる綾乃先輩を、夜の余韻を思い起こすように、再び抱いたのだけは強烈に覚えていて、指先に絡みつく亜麻色の長い髪の毛の感触が、手の中に生々しくまだ残っていた。
「桃夏は言ったさ、オマエが自分の事を愛してくれてるのは分かってる。でも、オマエはもてるから、関心が散漫になって桃夏は不安になるって……。そしてオレは桃夏を抱きしめて言った『オレじゃダメか?オレがいつも側にいてやる』って……」
僕らは海の上で睨み合っていた。
「桃夏は頷いたよ。もう泣いてなんか居なかった。それから朝まで僕らは何度も何度も抱き合った。オマエの事も桃夏の涙も、過去も未来も全てを忘れて、オレたちは互いの身体から齎される快楽に耽けり酔いしれたんだ……」
吐きそうだった。
「きっと、気の迷いさ……僕への充てつけだよ……」
精一杯の強がりだった。
「いや、これから役所に言って婚姻届を出す約束してんだ。オレたちは結婚する」
妙にきっぱりとコージは言い切った。
まるで死刑囚への死の宣告のように……。
「オマエ何言ってんだよ……、俺達親友だったじゃないか?」
「桃夏への恋心は教えなかったけど、オマエには何度も注意したろ、女遊びはいい加減にしろって!桃夏が居ながらお前は浮気していた、オレはずっとオマエより真剣に桃夏を愛していたし、幸せにする自身はある」
僕の優柔不断さが命取りになった、女達に誘われたら桃夏の顔が浮かびながらも、許して貰えるという甘えがあった。
でも、コージが何と言おうと僕は本当に桃夏を愛していたのだ。
「責任はきっちり取るよ、」
「僕の子供かも知れないじゃないか」
最後の足掻きはよそうと思ったのに、口を告いで出た。
「オレはコンドームが嫌いだ。知ってるだろ?桃夏もそれを望んだ」
僕はまだ二十歳にも成ってなくて、遊び盛りの僕らに妊娠と言う出来事は突発的な事故のようだと思っていた。
桃夏も僕にコンドームを強要したし僕も又、素直に応じた。
なのに、コージは何を言ってるんだ。すっかり僕はパニクッている。
「オマエはオレの事を一生恨むかもしれないけれど、オレはずっと親友だと思ってる。オレは親父の店を継いであそこに居るから、何時か『あそこに友達が居たな』と思い出したら来てくれよ……」
悲しそうでいて決然としたコージの態度は、もう既に自分の取る道を決めているようだった。
そして、その余裕が僕を余計に腹立たせた。
「奇麗事言うんじゃねぇよ!」
僕の頭は憎しみで炸裂し、足でコージのボードを蹴り倒そうとしたが、それを避けるために身を捩ってバランスを崩したコージは、海の中へ転倒してしまった。
やがて直ぐに水面に顔を覗かせ、乱れて頬に張り付いた髪を書き上げながら僕を哀れそうに見ていた。
「理由はどうあれ、ひとこと言ってくれても良かったんじゃないのか?唐突に、どうして今なんだ……」
僕は吐き捨てるように言った。
「これが運命だと思ってる……」
「何が運命だよ!……」
目に涙が滲む。
友情の終わりと、恋愛の終結を、こんな孤独な海原で味わうとは思ってもいなかった。
耳元で、風が口笛のような音をたてて、僕は我に返った。
コージを、このままボード無しで水面に放っておくのは危険なので、すすまない手を力無く差し伸べた。
コージは一瞬、躊躇しながらもこっちに泳いでこようとしたその時、パワーコードを外してあった彼のボードが波に反り返り、頭上目掛けてけて落ちて来た。
「危ない!」
僕はそう叫んだが間に合わず、頭を打つ鈍い音がしたかと思うと、辺りは真っ赤な鮮血に染まり、意識の無い彼の身体が波に揉まれ海に呑込まれて行くのを阻止術く、必死に追いかけた。
「コージ!コージ……」
彼を助けようと波を掻き分け、近寄る僕の指が赤く染まっている。恐怖に心が空回りしそうになる。
パワーコードを外して泳ごうかと思ったが、この海原の中、それは余りにも無謀で、例えコージを捕まえたとしても、ボード無しでは岸まで辿り着くことは絶対に不可能だった。
 たった五メートルばかりの距離なのに必死にもがいて近寄ろうとするが、波に妨害され手を伸ばしても届く距離には至らず、到底追いつかない速さであっと言う間にコージは海に浚われた……。


「嘘だろ……」


やがて、辺りは波と風の音しか聞こえなくなり、僕はひとりそこに取り残された。








 それからの事は、あまり覚えていなかった。
あの後、海から上がってきた僕は浜に打ち上げられたコージのボードを拾い、携帯で警察に通報した。やがて、けたたましい救急車やパトカーのサイレン、海上保安庁のヘリコプターの音が近づくと、ざわめく野次馬があっと言う間に集まって来た。
 僕はもうとっくに知っていたのだ、コージが死んでいる事を……。




「彼はどうしてあの……、足に着ける……」
「パワーコード?」
「そう、パワーコードを着けていなかったのかな?あれはマナーとしても着けなきゃいけないものじゃないのかね?」
 パトカーの中で、四十過ぎの警察官が僕に尋ねた。フロントガラスの向こうで、獣のように雄叫びを上げる波が僕を威嚇しているのが見えた。
「普通はね、でも波の高い日はあれが返って命取りになるんです。落ちた時波にもまれて頭打ったり、足に絡みついたり」
「あなたはしてましたか?」
「ええ、海に入るときはいつでも」
パワーコードもコンドームも……。心でそう呟いた。
「さっきあなたは暫く並んで話をしていたと言ってましたね?転ぶ所も見たんでしょう?波が高かったとは言え、プロ級の彼がどうして海に落ちたのか不思議ですね」
「僕らは……、ふざけ合ってました。そのときバランスを崩したのかも、何しろあの波はイカレてたから……」
桃夏の話はしたくなかった。
でも、どうしてこんなにスラスラと嘘がつけるのだろう。いや、限りなく嘘に近いが故意では無いし、真実でもない曖昧な表現だ。僕がコージのボードを蹴ろうと思った時、丁度、僕らは波のボトムに居て、ビーチは愚か人影すら波のカーテンに何もかもが遮られていて、真実は僕と神のみぞ知る所だったが、僕は僕自身を裏切る、臆病者に成り下がってしまったのだ。


 ヘリコプターは強風に煽られて危険なので、直ぐに引き返して行った。
海上保安庁の船もこの嵐には手も足も出ない……。
お昼近くになると雨は蛇口を全開にしたような大雨になり、野次馬達も帰って行った。
堤防には知り合いのロコサーファーが数人、雨に打たれるのも平気で煙った海を見ていた。
 警察官に解放されても、僕はここから立ち去れずにいた。
自分の犯した罪の意識か、親友を目の前で亡くしたした衝撃か、身体は震え涙は止め処なく溢れて、自分の車の中でさめざめと泣いていた。
その時、車のガラスを叩く音がして僕は顔を上げた。そこに居たのはコージの父親だった。着ているレインコートは既に用を成さず、フードは風にはためき、沈痛な面差しは雨でびしょ濡れだった。
胸が締め付けられる。
僕は窓ガラスを降ろした。
「君はもう帰りなさい、家に帰って暖かい飲み物でも飲むんだ……」
「小父さん……」
思わぬ優しい言葉に、涙が関を切って流れ出した。
「僕は……」
真実の塊が喉で仕えて言葉が出ない……。
「警察の人に話を聞いたよ。いいんだ、君のせいじゃない……」
小父さんも泣いているのか目は充血していたが、雨なのか涙なのか分からなかった。
吹きぶる雨が僕の顔を叩き、小父さんは窓を閉めるよう手で合図して、そこから立ち去った。
漠然と彼の項垂れた背中を見送りながら、涙を払った時、手の中で携帯が鳴り僕は飛び上がる。
 それは桃夏からの着信だったが、鳴るだけ鳴ってぷつりと切れた。




あれから僕も仲間達も、毎日ビーチへ様子を見に行ったが、結局コージの遺体は上がらず、捜索はあっけなく打ち切られた。
 経験上、誰もがコージの死を確信していたのも無理は無い、県内にも莫大な被害を与えた大型タイフーンだったのだ。
 サーファー仲間は漠然とした心を抱えながらも、どうすることも出来ずに朝靄の中、海に向って厳粛に祈りを捧げることしか出来なかった。


桃夏からは携帯に数十回の着信履歴があったが、それを無視すると今度は自宅に掛かってきたが、僕は尽く無視をした。
決して彼女を嫌ってるとかじゃなくて、コージの死に加担した僕がまともな顔して彼女を見られないからだ。
 そして、嫉妬に血迷った醜い自分を見られたくもなかった。
毎日を発条仕掛けの人形のように淡々と過ごした。そうしてないと螺旋が飛んでしまいそうに心は軋み病んでいた。歩みが止まると空虚さがどっと襲ってくる。
僕は何かを無くした……、愛する恋人?親友?最も恐ろしいのは純粋な良心……、毟り取られ純白の翼は舞い散った……。


 その日、定時に仕事が終わって駐車場に向うと、僕の車の横に桃夏が立っていた。
驚いたと言うより、いつか彼女がやって来る、そんな予感がしていたのも事実で、格段驚かなかったし、桃夏もいつもと変わらぬ眼差しで、穏やかに僕を見ていた。
「どうして電話に出てくれないの?」
僕と彼女の間を、夏の蒸し暑い風が吹き抜けて行った。
「コージが居なくなって、あなたがショックを受けたのは分かるわ、でも、どうしてその悲しみを私と分かち合ってくれないの?私は怖くて辛くて、あなたに側に居て欲しかった」
 暑さか、頬がほんのり上気した桃夏は本当に綺麗だった。
強い意思を宿した瞳を、バサバサと音を立てそうに長い睫で時折隠して僕を非難している。小さく形の整った唇は、蜜を宿した春の花のように、この心の渇きを癒したい蝶のような僕の気をそそる。
美しく長い黒髪に触れながら、彼女を胸元に引き寄せたかった。
「とにかく中へ……」
同僚が建物から出て来るのに気が付いて、彼女に車の中へ入るよう指示をした。
車内は夕刻であっても蒸し暑く、エンジンを掛けると僕は取りあえず車を走らせた。
「ねぇ、何とか言ってよ。あなたは何を考えてるの?」
沈黙に耐えられなかったのは桃夏の方だった。
「死って言うのは、凄く身近にあるってこと、」
「私にできることは無いの?」
桃夏は決然と僕にそう聞いてきた。
愛する男が死んだと言うのに、彼女の心が僕には見えなかった。
誰も居ない桟橋の端に車を止めたが、暑いのでエンジンはそのままにした。
まだまだ太陽は威厳を持って光を放ち、ボンネットの上や彼女の頬をオレンジ色に輝かせていた。
「君は僕が死んだら泣くかな?」
「泣くわ。死んじゃいたいほど」
「今回も泣いた?」
「当然でしょう?泣いたわ。でも、あなたでなくて良かったと思った私は罪人かしら……」
どんな顔をして言ってるのだろうかと、僕は桃夏の顔を覗き込んだ。
すると桃夏の頬を一筋の涙がすっと零れた。
僕は困惑する。
「コージは君の事好きだったんだ」
「うん、知ってる」
以外にも、彼女は淡々とそう言った。
「ずっとそうじゃないかなとは思ってたけど、あなたがいたから気付かない振りしてたの。でも、三ヶ月くらい前に告白してくれたの。あなたが同僚と浮気してる頃の話よ……、浮気……だったんでしょ?」
「うん……」
だからって、その事について今更僕は謝らなかった。
「相談してたのあなたとの事、コージは本気だったわ」
「それで?」
「今日、始めて関心を示してくれたのね?」
桃夏は悲しい笑顔をしていた。
「寝たわ。コージと」
反応を確かめるように、桃夏は真っ直ぐに僕を見たが、僕の心の凍てつきに気づいたのか、悲しい瞳をして話を続けた。
「この頃のあなたは私への関心が薄れていたでしょう?社会人になっていろんな人との出会いもあって、毎日が忙しそうでいて凄く楽しそうだったわ。たまに会えたと思っても気は漫ろ・・・一緒に居ても悲しかった。あなたがどんどん遠くなって行き、気が付くと隣にコージが居たの。私が言うまでもなくコージは見かけとは裏腹な硬派で、私に対してはいつも誠実に対応してくれた。その優しさに私の心は揺らいだの……、あなたでなくてどうしてコージを選ばなかったのだろうかって……」
自業自得とはこう言うことなのだろう・・・全身から力が抜けて行く。
「でもね、彼の身体に反応しながらも頭の中ではずっとあなたのことを考えていた。コージの指が私の身体をさ迷っても、温かい手の感触はあなたそのものだった……。朝、横で眠るコージの寝顔を見て、いったいあなたは何処にいるのだろうって思ったわ……」
赤裸々な話は、誠実の証だろうか。間抜けな僕は妙に冷静で、桃夏の話を黙って聞いていた。
「コージは君と結婚の約束したって言ってた」
「そう。あなたのことは本気で愛してるけど、私は私のことを全身全霊で愛してくれる人と一緒にいたい……。きっとベッドでは誰と居ても、あなたのことを思うでしょうね……」
「でも、コージは死んだ」
「ええ、それでも何も変わらないわ。相変わらず私はあなたを愛している……。だけどあなたとは一緒に居られない……」
恐らく真実であるだろう。
「僕はどうしたらいいんだ……」
「私のこと嫌いになった?」
「そんなことできるはずが無い」


 それでも、何かが変わった……。


季節が巡って風向きが変わるように、僕らの間に忍び寄る悲しい予感……。


本当の事を言うと、僕はコージも桃夏も許せなかった。
決して自分の行為が許されるものだとは思っていなかったが、桃夏には僕だけだと妙な自身があった分、衝撃は大きく、女なんてそんなものかと落胆し、その日から、或いはコージからふたりの関係を聞かされたあの嵐の日から、桃夏への気持ちが急激に萎んで行くのを感じていた。
そして、コージが哀れで仕方なかった……。
「子供は?……赤ちゃんができたって聞いたけど?……」
「そこまで聞いてたの?」
力無く微笑む彼女。
「……どっちの?」
「コージ」
何を期待していたのだろう……、この落胆した気持ちは一体何なのだろうか……。
「でも中絶してきたわ」
「どうして?」
「コージは死んじゃったし、……」
「まだ、分からないよ」
「気休めは止して、今まで行方不明になって助かった人っている?皆無でしょ」
 見た目には穏やかに緩く続くビーチだが、砂の流出で五十メートルも行かないうちに急激に削りこまれていて、一部を覗いて殆どが遊泳禁止地区なっており、看板を立てて注意を促しているにも関わらず、無知な観光客が数年に一度の割合で命を落とす。
確かに彼女の言う通り、足を掬われて生還した者は居ない。
「こんな小さな町でみんなの好奇な目に晒されながら、子供を生んで私ひとりでは育てられない」
「僕が……」
「無理よ。今でもあなた忌々しい顔して私のこと見てる……、毎日、コージの子供を前にしてあなたは、私とコージの関係を一生思い出すのよ。そんな負担、あなたにかけられない」 
桃夏は僕が本気で愛した、最初で最後の女性になるかも知れない。
黙っていればコージとの関係も僕の頭の中で否定し終わっていた事だったし、誰の子供かなんて分かりはしない。
なのに正直に全部話してくれた。
桃夏は全てを否定して生きて行くつもりは無かったのだ。
コージの為に?
それとも僕らの為に?






 その日から桃夏の連絡が途絶えた。
店の前を車で通る時、ちらりと姿を見ることはあったが、僕も電話をしようとは思わなかった。
僕らに時間が必要なのはわかっていたし、無くしたものが大きすぎてまだ立ち直れなかったのだ。
 やがて夏祭りの準備や、ビーチで毎年開催されるフェスティバルに出店する地元商工会の手伝いが忙しくなって、僕は仕事に没頭した。
暇になるとろくな事を考えないので、疲れきるまで身体を動かして後は眠るだけ、そんな無味乾燥な生活をあえて心がけた。
 僕と友人のアキラは、明日使われる出店のテントを張り終えて、冷たいコーラを飲みながら一息入れていた。
 僕の知ってる限り仲間のサーファーはみんな煙草を吸わない、海で体力が尽きてしまうほど格好悪い事は無い、で、いつも何となく手持ち無沙汰なのだ。
 海はきらきらと輝き、欠片が反射して目を射した。
「コージはどこにいるんだろうね……」
アキラが、頭にあった黄色のサングラスを掛け直しながら、沖を見やってそう呟いた。
彼もまたサーファーで、赤茶けた長い髪の毛が太陽に透けている。
「十年前にも大型の台風が来たよなぁ、俺達はほんとまだクソガキで、波に向かって行くサーファーの背中を見送りながらなんて勇気があるのだろうって、妙に感動したっけ……」


あの年の事はよく覚えている。
家が崩壊するんじゃないかと思う程の強風が吹いて、ヨットハーバーに係留された船が何隻も破損したのを見た。
 街はゴーストタウンのようにゴミで溢れ、看板は奇妙に折れ曲がって道路を塞いでいた。
「ああ、伝説のサーファー”キース”の肩にあった蝶の刺青がとても綺麗だったのを鮮明に覚えているよ」
各国の波を追いかけてやって来るプロのサーファーでも、キース・アンダーソンは日本が好きで、暫く河口に住み着いていた物好きなアメリカ人だった。
 海岸の清掃や大会運営も率先して参加し、ロコの信頼も厚かったし、何よりその容姿物腰から女の子には絶大な人気で、いつも綺麗な女性と闊歩してたのを覚えている。
 僕らはまだ小学生だったけど彼に憧れ、真似して蝶のシールを貼ったり、金髪に染めたりしてそれぞれ親にこっ酷く叱られた。
「格好良かったよなぁ……」
アキラは鼻に皺を寄せて呟いた。
「ああ」
「でも、返って来なかった」
そう、十年前のタイフーンの朝、海へ向う蝶の刺青を僕らは見送った、でも彼が上がって来ることは無かった……。
「僕の永遠のヒーローさ……」
だから僕は海を征服したがるのだろうか……、僕のヒーローを飲み込んだ海に敵を討つ為に……。
キースの蝶が脳裏に浮かんで切なかった。
彼が居なくなって一緒に泣いたコージも今はもう居ない。
「アキラ、お前が臆病で僕は嬉しいよ」
コーラを噴出し、憤慨したようにアキラは鼻の穴を膨らませて言った。
「臆病だと?」
「サーファーにとって、勇気とは命取りになる」
「あのさぁ、おまいらは”無謀”なんだよ、あの海に沖へ出るなんてさ、オイラは母ちゃんの悲しむ顔が脳裏に浮かぶのさ、悲しませちゃいけないって、……ナンテな。やっぱ誰だって怯むでしょう?あの波には?」
アキラは笑いながらウインクをした。
「正解だと思うよ、今頃気づくなんて僕は大馬鹿だ」
一気に落ち込んだ僕を慰めるように、アキラは僕の肩をポンポンと軽く叩いた。
「オイラは臆病なんだよ、だから海で死ぬような事は無いのさ、認めるからそんなに落ち込むなよ」
「コージの命と引き換えの、酷い代償だよ」
「ヒマラヤの奥に、人も入れぬ桃源郷があってな、……」
「何だよ突然」
人が真剣に話してるってのに、アキラの突拍子のない話題に僕は苦笑した。
「まあ聞けよ。そこには人類全員の名前を記した蝋燭が燃えてるそうな……、それが燃え尽きる時、その人に死が訪れる。コージはその蝋燭が燃え尽きただけなんだよ。生まれた時から燃え尽きる期間は人それぞれに決まってるんだってさ。運命だったんだよ……」
アキラは博学を披露して、どうだと言わんばかり得意そうに微笑んだ。
しかし、僕の反応の悪さに念を押すように顔を覗きこんで来た。
「何だよ、感動話だろ?」
「それ聞いたことあるよ。確かキースが言ってた」
「だっけー?」
ヘラヘラと笑うアキラは憎めない奴だ。
「キースにしろコージにしろ、海で死ねて本望かなぁ……」
「何言ってんだ、死ぬのに本望なんてあるもんか」
僕は即座に否定した。
「だね……。やりたいこともいっぱいあっただろうに」
アキラは溜息をついた。
「あいつ結婚考えてたんだぜ」
「え?マジかよ……相手は?」
驚いたアキラは瓶を落としそうになる。
「知らない……」
それは桃夏と僕が棺おけまで持って行く真実。
僕は彼女が誰にも喋らないと言うことを確信していた。
「あいつの親父さぁ、あれからも毎日店開けてるんだって、でもみんな痛々しくて見てられないって、最近じゃ地元の者はあの店に寄り付かないんだ。店の脇にコージのボード立てかけてあるんだぜ、親父さんからすると早く返って来いって言う、一種のメッセージなんだろうけど、オイラ達からするとヤバイよね、あれが頭にあたって致命傷になったなんて思うとゾッとする、夢に出そうだぜ」


小父さんには一生償わなければいけない。
跡取りが決まってどんなに嬉しかっただろうかと思うと、想像を絶し僕は胸が張り裂けそうになる……。









「おう真昼、どうしたんだこんな早くに」
コージの親父は市場で買い付けた材料を、車の荷台から降ろしながら僕を見つけてそう言った。
 午前六時十分、太陽が東の山から昇り始めていた。
「小父さんにどうしても話しておかないといけないと思って……」
心労か頬は痩せ扱けている。
その原因を作ったのが僕だと思うと胸が痛む。
「ちょっと待ってな」
小父さんは荷物を抱えて店に入って行き、暫くすると中からテラスのドアを開けて僕に入るよう合図した。
「コーヒーでも入れようか?」
「いい」
僕の即答に、小父さんの戸惑いがちな笑みが零れた。
「何だよ、そんな深刻な顔して、太陽のようなオマエのキャラには似合わないぞ。ま座れ、」
そう言いながら自ら腰掛け、胸ポケットから煙草を取り出し火を付けた。
「あの日さぁ、僕とコージは喧嘩してたんだ。嵐の海上で……」
「よくあることじゃないか、お前らは仲良いくせにしょっちゅう喧嘩してたよな」
「違う、いつもの喧嘩じゃ無かったんだ」
つい、強張った僕の声に小父さんは目を上げた。
「桃夏のことで言い争いになったんだ」
「そういや彼女、最近ひとりで店によく来てたな」
やはりそう言うことだったのか、僕が誘っても嫌がる筈だ。
「小父さんも僕と桃夏が付き合ってるのは知ってるでしょう?」
「ああ、高校の時からだろ、前はよくふたりで店に来てくれてたじゃないか」
「コージは桃夏を妊娠させたって……、あの嵐の海の中でそう言うんだ……」
「冗談だろ?」
小父さんは軽く笑った。
「僕も最初は悪い冗談だと思って聞いていたら、これから婚姻届を出しに行くって真顔なんだ」
「だって、お前の彼女なんだろう?」
「そのつもりだったよ、その話を聞くまでは……でも、そう思っていたのは僕だけだったみたい……桃夏は僕と居ても悲しかったって……後で聞いたよ、僕は社会人になって浮かれ過ぎたんだ」
「彼女はほんとに妊娠してるのか?コージの……」
驚いて声が少し上ずっている。
「コージが海で居なくなった次の日、中絶したそうだ……。ひとりでは育てられないって言ってた」
小父さんは酷く落胆したらしく、疲れ切ったような顔を両手で覆った。
「僕はね、小父さん、あまりの憎しみに燃え、コージのボードを蹴ろうと思って足を投げ出したんだけど、コージはそれを避けた拍子にバランスを崩して海に落ちたんだ。勿論、そんな事でコージの命が危険になるなんて思いも寄らなかった……。事実、直ぐに浮かんだコージは僕と話をしていたんだから……」
小父さんは顔を上げて、僕を真っ直ぐに見ていた。
その視線が、僕には痛く辛かった。
「これは運命だったんだって……、桃夏との事だと思う、最後にそう言ってた。彼の未来は洋々としていて帆を張った真新しいヨットのように、海原に漕ぎ出そうとしたところだったんだよ……」
僕の目から涙が溢れ出してきた。霞んで水平線が滲んだ。
「僕がボードを蹴ろうとしなければ……、今頃はここで結婚式の祝杯を挙げていたんだよ、小父さんは倉庫に隠した極上のワインを空けてさ、幸福に酔いつぶれていたかも知れない……。本当にごめんなさい」
「お前を除けてか?……生まれてからずっと一緒だったお前を……」
風が止んだのか、辺りは小父さんの吸う煙草の香りで満たされた。
それは僕の鼻腔を苦く刺激して、心を縛り付けた。
「真昼、人間の命なんてそんなもんなんだよ、お前が怒ることを知ってて、どうしてそんな海の中で言ったのか……、どうしてパワーコードを外したボードが襲って来るのを予想出来なかったのかとか、悪い偶然はそう言うとき、一気に加速するんだ。」
そう言って煙草を揉消した。
「勇気が無くて、その事を警察には言えなかったんだ……、だから苦しくて……小父さんには真実を話さなくちゃいけないと、ずっと思っていたのに、こんなに遅くなってしまってごめんなさい……、」
「いいよ。そんなのは罪じゃないし、お前はまだ傷ついている。息子同然のお前が、これ以上苦しむのは見たくないし、この年寄りをこれ以上悲しませないでくれ……、早く元気になって、太陽のようないつもの笑顔に戻ってくれよ……」
そう言って小父さんが微笑むので、僕は咽び泣いた。
「でも、僕は進めないんだ……前に進めない……」
「無理に進むことは無いじゃないか、今、ここに、この大地に、一生懸命立つ事が先決じゃないのか?」
小父さんは僕の肩を抱き、赤ん坊をあやすように背中を優しく撫でてくれた。
しかし、悲しみはより増して子供のように僕は泣きじゃくるのだった。
 







 コージの親父と別れ、僕はまだ混沌とする心を引きずるようにとぼとぼと、桟橋を歩いていた。
「何やってんだよ真昼!みんなてんてこ舞いだってーのに、」
アキラが首に掛けたタオルで、汗を拭きながら僕をマジでどやした。
足元にはビールの樽が、でんと控えている。
 顎でしゃくった後ろの仮設テントの前は行列が出来ていて、中の連中は大忙しで焼きソバを焼いたり、イカを焼いたり、コップへビールを注いだりと、明らかに人手が足りないのは目に見えていた。
「そろそろみんな小腹が空いてきたのさ、さっきからオイラはビールの樽運び、そろそろうんざりしてきたぜ」
「悪りぃ」
アキラの軽い膝蹴りを、甘んじて腰に受けながら、僕らはテントへ急いだ。
 頭上には目が覚める程の真夏の太陽が、地球を焼き尽くさんばかりに輝いていて、完璧な入道雲が青い空と強烈なコントラストを描いていた。
 ビーチには大勢の人がいて、これから行われるマーメイドコンテストの、取材に訪れたカメラマンや、そこいらの単なるオタク小僧が特設ステージ脇に陣取っていて、異様な雰囲気をかもし出していたが、水際では休日を楽しむ親子連れ、若しくはナンパ目的の男女で賑わっていて、いつもの休日と何ら変わりはしない。
しかし、僕の心だけは深海の底のように暗く、天の光は届いて無かった……。




 午後を過ぎ、マーメイドクイーンが大きな花束を抱えてステージでインタビューを受ける頃にピークを迎えた砂浜は、それから徐々に足並みが途絶えたかのように見えたが、今度は夜の花火に向け場所取りの人々で、夕刻が迫りつつあるビーチに再び人が増え始めた。
 今度は、夜に向け忙しくなるので交代で休憩をする為に、僕は仮設テント裏で防波堤のコンクリートに凭れてコーラを飲んでいた。
「真昼」
呼び声に見上げると、そこに桃夏が立っていた。
いつもと変わらぬ涼しい笑顔に長い髪の毛が風に揺らいでいる。
腰に巻いたタブリエが、仕事でここに居る事を物語っていた。
「忙しそうだったから声掛けられなかったの、私もずっと居たのよ。マーメイドクイーンの花束と、入り口のアーチなど飾りつけは家の担当なの」
「くたくただよ、忙しいのなんのって……、安易に引き受けた僕がバカだった……」
「真昼はやさしいから……」
桃夏がはにかんだように微笑む。
「私も休憩なの少し歩かない?疲れてる?」
「いいよ、行こう」
僕は賑やかな人波から少し離れたかった。
静かな画所で深呼吸がしたかったのだ。
魚が海に帰るよう、鳥が山に帰るように……。






 僕らは桟橋を抜けて砂浜へと降りた。
太陽は瞬く間に海へ沈んだが、残光が筋を引いて雲の切れ端をオレンジに染めていた。
腰ポケットに靴を詰め込んで、素足になると波が心地よかった。
彼女も同じように素足で歩いている。
「久しぶりだね、こうやって散歩するの……」
僕は軽く頷いた。
「少しは落ち着いた?」
「全然、気持ちの整理が付かないから今朝、コージの親父に会ってきた」
「そう?おじさんは元気?」
「かなりやつれていたけど、概ね元気かなぁ、と言うより元気そうにしてる。きっと辛いには違いないだろうけど、僕らには計り知れない……」
「そうね……」
裸足で歩くと、砂が指の間から生き物のように這い出す。
親と同じ姿形の、三十センチ足らずの鮫の子供が砂浜に打ち上げられ死んでいた。
朽ちて行く、その小さな身体に纏わりつくハエが忌々しかった。
「桃夏……君に言って無かったことがあったんだ」
「何?」
僕は朝方小父さんに話した話を、そっくりそのまま彼女に話した。
「いつもの事じゃない、海の上でも気が付くとふたりは喧嘩していた、ループからは何十回も何万回も扱けて来たし、どんな嵐の日でもふたりは生還して来たわ、今回はコージの運が悪かっただけよ……」
以外にも、彼女はあっさりそう告げた。
僕は嫌な奴で、どこかで誰かにそう言って貰いたくて、告白してるだけなのだ、そうして心の負担を軽くしたかったのだ。


なんて情けないのだろう……。


 もしもあの時、一緒にふたりが生還したのなら、憎しみと失望で海の藻屑と消えるのを僕は望んだだろう。
 恥ずかしいが親友と桃夏の幸福を祝うなんて、心の狭い僕には到底できる筈が無かった。
「桃夏……、もしコージが生きていたら、今頃、君達は幸せに暮らしていたんだろうか……」
「多分……、まだ私のお腹には彼の赤ちゃんがいたと思うわ」
遠い目をして桃夏は微笑んだ。
「僕が真剣にやり直そうって言ってたら?そうしたら事態は変わってたのかな……」
桃夏はその穏やかな顔に微笑を宿しながら、頭を振った。
「遅いよ真昼、私はコージに決めたから彼に抱かれたのであって、寂しかったとか、あなたへの腹いせだとか思わないで……。単純にコージの直向さや真剣さに惹かれたのだから」
「そっか直向」
その言葉に虚脱感は隠せなかったが、でも僕には分かるような気がした。
桃花はちゃんと見ていたのだ、コージの良い所、本質を……。
「でもね、あなたが浮気したあの時、素直にちゃんと謝ってくれて、せめてそれからは私のことだけを見てくれていたのなら、こんな事にはならなかったと思うわ。私はあなたを愛していたのだから……」
出来ることなら最初からやり直したかった。
 悔やみきれない人生の汚点は、拭い去ることは出来ないし、失くした物は二度と戻らないことを始めて知った。


何億回も繰り返す波は徐々に砂浜を削り、地球を侵食する。
僕の犯した罪は、僕の心を病まして意識も身体も蝕み、心臓に刺さった罪悪と言う名の杭は、桃夏の言葉でも抜けることは無かった。


やがて陽はどっぷりと落ち、天に夕闇が迫りつつあった。
一等星が瞬き、レースのように繊細な月は、夜色に濃く姿を変えつつあった。
「私達、完璧すれ違っちゃったね……」
「そうだね、君が規則正しく回っている太陽だとすると、僕はこの月のように姿形を変えながら不器用に生きて行くしかないのさ……」
桃夏は哀しげに微笑んだ。
少し前なら狂おうしくも愛しくてならなかった彼女も、今は色あせて輝きを失っていた。
「次に、あなたに出会う未来の彼女が羨ましいわ」
「どうして?」
「きっと大切にして貰える」
痛みは成長の過程だろうか、できれば誰にでもそうありたい。
「でも覚えていてね、今までも、これからもきっと、世界で一番あなたが好きだったってこと」
「僕もだよ」
それは真実だ。
たった二十年しか生きてないけど、若さゆえの無謀過ぎる程の恋愛はきっとこれが最後だろう……、それほど僕は桃夏を愛していた。
その唇も、憂いを含んだ瞳も、長い睫も全て真剣に愛したのだから……。


 その時、パトカーのサイレンが俄かに聞こえてきたかと思うと、桟橋の端で止まった。
僕らはかなり歩いて来てたので、遠目では何があったのか分からなかったが、堤防を小走りに歩いて行く人に尋ねた。
「腐乱死体が上がったんだってさ、先月行方不明になったサーファーの死体じゃないかってみんな騒いでる」
言うだけ言って、その人は桟橋の方へ歩いて行った。


僕の心臓は壊れるほどにバクバクと音を立て始め、頭は真っ白で痺れていた。


コージの死体……。
海に晒され魚に啄ばまれた恐ろしく無残な腐乱死体……。
「行っちゃ駄目」
フラフラと引き返そうとした僕の腕を、きつく桃夏に引っ張られ我に返る。
「ダメよ、コージの死体なんか見たら、私達前に……、未来に進めなくなっちゃうわ」
彼女は泣いていた。
僕の瞳からもポロポロと涙が零れ、桃夏が霞む……。
「現実は残酷よ……、見る影もないコージの死体は残像として私達の記憶に永遠に残るのよ……?」
桃夏は両手を僕の胸に押し当てて、引き止めるのに必死だったが、僕の気持ちはもう決まっていた。
「それが僕の責任なんだよ、コージを海の中へ、ひとり取り残して来た僕の償いなんだよ……僕が迎えてあげないと……」
桃夏は泣きじゃくっていた。
「君はいつか誰かの子供を生み母親になり、幸せに暮らすんだ……、コージの姿は何時までも美しいまま覚えておいてくれ……」
僕は涙を拭いて無理やり微笑んだ。
桃夏はその場に泣き崩れ、もう、顔を上げることは無かった。
「さよなら」
僕は、桃夏に最後の別れを告げる。




明日への道を歩む為にも、僕は行かなければればならない。
君を迎えに……。


お帰りコージ、君は僕を許してくれるだろうか……。


いつかふたりで波乗りの夢を見よう。


僕らはふざけ合い、じゃれ合いながら次の波が来るまで待つのだ。




               END


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