sky

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 3. on a rainy day  

雨が降る。
天も海も大地をも曇らせて雨が降る。
電車の窓には時折、大粒の雨がザァっと音を立てて吹き付けてきた。
こんな雨の日だったろうか・・・。イスラエルからの国際電話が父の訃報を知らせた。
対空砲がホテルに落ちて、翌朝、瓦礫の下から父の遺体が発見されたのだ。遺体はすぐに飛行機で送られたが、その横には辛うじて原型を留めていたライカが添えられていた。
覗き込んだ棺の中では魂を失った蝋人形のような父が横たわっていた。
「次の旅には一緒に連れてってくれるって約束したのに・・・」
耳元で憐がぽつりと呟いた。それからはらはらと涙は止め処なく零れて、頬を伝って足元へ落ちて行った。あれが憐の涙を見た最初で、きっと最後だろう。そんな気がする、強い男の子なのだ、そして、多くの犠牲を払ってる。
 だから私は泣けなかったのだ、先に憐に泣かれたから・・・。
ゴトゴトと揺れる電車は相変わらず眠気を誘った。

「別に止めやしませんよ、ただね、あちらの家に戻りたいのなら戻る、こっちに居たいのなら居るでちゃんとしなさい。あなたは母親と違って要領が良いんだか悪いんだか、どちらにしてもその優柔不断さは私の気に障るわ、」
 私が二、三日、高石の家に行っていいかと訪ねたら、食卓で祖母はそう言った。
家政婦は聞いてない振りをしてご飯をよそってる。その、彼女の背中までもが、私を責めているように感じるのは自分自身がどうしたいのか、結論が出ていたからなのだろう。
「夏が終わるまでに、どっちで厄介になるのか決めなさい」
食堂の窓からは噎せるように青い空と、高温に淀んだ池の中で鯉がひらひらと泳いでいるのが見えた。夏の庭は濃くなった緑がそこに影を落としてひと時の憩いを与えている。高い木々の間から、行く夏に蝉が狂い鳴きしていた。天の青が眩しすぎる。みんな少しずつ不幸だと言うのに・・・。

 おっとりしてる割には、向こう見ず、或いは天然、そんな性格を持ち合わせており、それは時々自分自身をを困らせた。
例えば今、駅に降り立った私は、フルセットのゴルフクラブが入ったキャディーバッグを持って来たことを後悔していた。
改札は出たものの、雨はアスファルトに穴を開けそうな勢いで降り続いていて、その中へ歩き出すのには勇気がいった。
町も岬も雨にすっかり煙っていて、人気《ひとけ》の無い無人駅のベンチに腰掛けた私は、足元に出来る雨の王冠を、ぼんやり見るともなしに、缶コーヒーを飲んでいた。
「何やってんだよ」
 声に顔を上げると、そこに憐が立っていた。
 腕も足もギブスが取れて、前回会ったときの痛々しさの欠片も見えない。
「どうしたの?」
「迎えに来たのさ、また例によって思柚の言いつけでね、オレが来なきゃあいつ這《は》ってでも来るさ」
「また具合悪いの?」
「今度は喘息」
溜息が雨の音にかき消える。
憐は私のゴルフバッグを見たが、肩を竦めただけで何も言わなかったし、無事だった手を貸そうともしなかった。
「車持ってくる」
指差した方向には父の四駆が停めてある。
「え?あれ運転してきたわけ?免許まだでしょう?」
「あたりまえじゃん、幾つだと思ってんだよ」
「信じられない!」
私は憐から車のキーを取り上げると、そこに憐を取り残し土砂降りの雨の中車へと駆け出した。いつだって憐はとんでもない奴だったが、更に拍車がかかっているようで、私が車を側に乗り付けても飄々とした顔で煙草を吸いながら立っていた。
「あんたこそ、免許持ってんの?」
ゴルフバッグを後ろに積みながらそう言った。
「いくつだと思ってんのよ、」
つい言葉が刺々しくなり、お互いが目を細めながら苦笑いする。
 ワイパーは狂ったように雨粒を払い除けていた。
「懲りない人ね、また事故ったら洒落になんないでしょう」
「いつもオレは助手席さ」
私は憐の横顔を見た。
何を考えているのだろう、何が言いたいのだろう・・。
「ねえ、どうして事故ったの?居眠り?」
「自殺したかったんじゃないの?」
「まさか、」
私は鼻で笑ったが、憐はそれについてはあまり話したく無いのか、真面目な顔して前を向いていた。
「私はへまをしないから」
「はん?、性格どうりの強気。でも、車ってちょっとハンドル握り返すだけで横転するんだぜ」
 急に雨の音が耳を劈いた。
 憐は笑ってなんかいなかった、ただ真っ直ぐにフロントガラスの向こう雨の行方を見ていた。
「脅かしてるわけ?やってみなさいよ、私にはあなたと違って守るべきものは何も無いわ」
 その時、憐は始めてこちらを向いた。
 私たちを取り巻く空気が、ピンと張り詰めている。
「嫌みだな相変わらず」
それっきり憐は黙った。
 すぐに挑発に乗ってしまう自分に腹が立つ、憐を傷つけると自分まで傷つく、まるで堂々巡りの回転木馬、そして意味が無い。
だけど、私の中で妄想が広がる、憐はほんとうにハンドルを切ったのだろうか・・・?
 最悪のジョークだ。ほんと・・・。

 ゴルフバッグを隅に置くと、二年前と少しも変わらない部屋をぐるりと見渡した。
 南向きの窓からは打ち寄せてくる波がちらちら揺れ、降り止まぬ雨は水平線を曖昧にしていた。
白い壁には父と一緒に取り付けた青いペンキで塗られた棚があって、そこには海岸で拾い集めた貝殻がそのまま置いてあった。大きなパイン材の机とベットは兄弟たちとお揃いだったが、それぞれ配置とファブリックが変えてあるだけで、まったく違う雰囲気を醸し出していた。ベットの上には真新しいシーツとワッフル織りの上掛けが置いてあり、サイドテーブルにはシャスターデージーが活けてあった。
ベットに座りスリッパを脱ぐと、久しぶりにひやりとした床板の感触を足の裏で感じていた。
そうするうちに、雷が鳴って思柚がベットに飛び込んできた事や、かくれんぼしていたクローゼットの中で、憐とふたりして眠り込んでしまった事などを、思い出して顔が綻んだ。この部屋には子供の頃の夢がきらきら輝いて、宝石箱のようにぎっしりと詰まっていた。
それでも、私はクローゼットの中から箱を取り出して、部屋の中にある要らないものだけど処分しきれない物を、昔からそうしたように箱の中へ入れると、貝殻以外何も無くなって、どんなに大人ぶっていても十六の私はやはり子供だったと思い知らされるのだ。そうすると二十歳の私は十八の私を子供だと思うのだろうか・・・、いつまで成長しなければいけないのだろう、いつになったら大人になれるのだろうか・・・。

 この家に帰って来てまず私がしたことは、仏前のお祈りと父の部屋を覗いたことだった。
そこも私の部屋同様、主が出て行った時のまま、菊がそうしてあるのだろうか、束ねた手紙の横にあるペーパーナイフや椅子に掛けたブランケットの位置まで同じで、三年が経ってしまった今となっては返って悲しい。
 そこには使い古された歴代のライカが、格別大儀そうも無く置かれていたし、イタリアから取り寄せた流線型のアートな机の引き出しには、大事なフィルムのネガやCD、出版社に送った記事のファイルが収められていて、父の生と死がそこに凝縮されてるかのようだった。
だからいつも私は中に入るのが怖くて、外から父の残像を、亡霊を伺う事しか出来ないのだ。夢に見る、その穏やかな笑顔が怖かったのだ・・・。
「僕見たんだよ」
ぎょっとして振り向いた後ろに、いつの間にか思柚がいた。
具合が良くないのでパジャマ姿で、手にはネブライザーを持っている。
「父さんがこの部屋に入って行くの・・・」
「パパが?」
「確かめるため直ぐにドアを開けて見たんだけど誰も居なかった」
思柚は平然とそう言う。
「幽霊ってこと?」
「僕はね、僕を迎えに来た死神かと思ったんだよ」
そう言ってネブライザーを吸い込む音が、長い廊下に響いた。
「人が死ぬときってさ、やっぱり映画のような黒いマントを着た死神が迎えに来るんだよ」
「ばか、何言ってるの」
弟はそういった未知なるものが時々見えた、慣れっこになっているのか分野が違うのか、こういうときはやけに淡々と話す。早く大きくなって私の背丈を追い越し、かけっこだって水泳だって私に負けないくらい速くなって欲しかった、でないとその華奢な身体は陶器で創った人形のように今にもぱらぱらと崩れ落ちそうに軋《きし》んで見えた。

 翌日も朝から雨が降り続いていた。
南国に似つかわしくないしとしとと降る雨は空と大地に紗を掛けて、永遠にこの世の総てを酸で溶かしてしまいそうに思えた。
ここはこんなに静かだったろうか、深海に沈む戦艦のように時間が停滞していて、察知しない遠くで気を惹こうと波の音だけは迫って来ていた。あらゆる臨場感の聴覚だけが研ぎ済まされる、何気ない日常がここにあった。
キッチンにはトマトソースとガーリックと、オレガノの匂いが充満していて、菊はにこにこしながら鍋をかき混ぜていて、私はランチ用のパスタを茹でていた。なんて幸福の香りなんだろう・・・。 取れた立ての玉葱や馬鈴薯、深く熟したトマト、吊るされて尚香る大蒜、そういった食材が仄かに湯気の立ち上るキッチンで首を長くして出番を待っている、そんな濃い空気の中で私は泣きたくなるのだ。
「今年の夏祭りには、残念ながら浴衣は間に合わないわねぇ、帰って来ると分かってたら縫ってあげたんだけど」
ふと思いついたように菊が言う。
「いいの、私は背が高いから似合わないわ」
「今の娘はみんなそうよ、昔と食べ物が違うからね」
とっくの昔に憐と思柚が浴衣を着るのを止めてから、私だけにはと菊が毎年浴衣を縫ってくれていた。それを着てちょっとばかり化粧をし、髪を結ったりすることで大人びて気分が高揚した。
「今年も沢山の夜店が出るんでしょうね」
「年々賑やかになってゆくようだわ、お供え物以外特別な料理はしませんよ、あなたたちはいつも買い食いしてお腹いっぱいにするんだもの、毎年お料理が余ってしまって勿体無いったら」
 千段と言う途方も無い石の階段を登りきると、そこには海の神様を祭った立派なお社が堂々と建っていて、人々はことあるごとにそこに詣でた。
年配者にはちゃんとモノレールが優先されたが、私たちはうんざりするほど長い階段を歩いて、道々、綿菓子や苺飴、ホットドッグやチープなお面、蛍光色の扇子などを買い求めることが楽しくて仕方なかったし、途中、立ち止まって振り返った下界の町並みは絶景で、天も地も星屑を鏤めたように瞬いていて、息が止まるほど美しかった。
「あら、お寝坊さんおはよう」
 ぼそっと現われた憐に向って菊が声を掛けた。
 憐は冷蔵庫からレモネードのピッチャーを取り出して、グラスに注いでいる。
「車のキーは取っときましたからね、まったく油断ならないんだから、雨も降ってるし今日はタクシー呼んで上げるからリハビリ行ってらっしゃい」
「今日はだるい・・・雨降ってるじゃん」
憐は顔を顰めて窓の外を見た。
「だめ、先生が毎日いらっしゃいって言ってたでしょう?早く直すにはちゃんとリハビリしなきゃ」
「じゃあ私が乗せてってあげる、ついでに買い物も済ませて来れるし、洗剤が切れそうって言ってたわよね菊?」
この頃、打てば響く憐はお休みしてるらしかった。
黙って私を見ている。
「あ、そうねぇ。そうしてくれる?助かるわ」
憐は調理台に腰掛けて鷹揚にレモネードを飲んでいた。
 雨の日でも窓際に居ると髪の毛が茶色に透け、祖母が嫌う西洋の血が顕著に現われていた。
「なんだよ」
ふと我に返ると憐が私を見ていて、ぶっきらぼうに尋ねた。
「何でもない・・・」
「なーんだよ!」
見とれていた・・・のだろうか?
 だとしてもそんなこと死んでも言えない。憐はまだ眠そうな顔をしていて機嫌が悪く、その方が今の私には都合が良かった。


「確かに毎日通うのは億劫よね?学校帰りなら別だけど、夏休みだものね」
 私たちはリハビリを終えて、スーパーマーケットへ向っていた。
 雨はまだ、しきりに窓を叩いていてワイパーは忙しなく動いている。
 リハビリで疲れたのか、憐は目を閉じてシートに深く凭れ掛かっていた。
気詰まりな会話は、低いエンジンの音と雨にかき消さる。
「あの女さ、親父と籍入れて無かったんだぜ、笑っちゃうよな」
 唐突に憐はそう言った。
「え?うそ・・・・」
 憐の顔を見たかったが運転していたので、蛇行するアスファルトの先を、見るともなしに見ていた。
あまりの驚きに脳が麻痺する。
 憐はうろたえる私を、認識しながらも観察する為だろう、態《わざ》と今、こういうことを突然言う。
私に弱みを見せない為に。
 もう一度憐を盗み見ようとしたら、憐もこっちを向いていた。
「危ないから動揺すんなよな、ちゃんと前むいてろ」
「わ、わかってるわよ、」
 私は大いにうろたえた。
 そんな事って、あるだろうか・・・?
「でも彼女が家に来たとき、パパは確かに『新しいお母さんだよ』って言ったじゃない」
「言った。でも籍は入って無かったんだ・・・」
「どうして?」
「知るか」
「パパはそんな予感がしていたのかも・・・、家族が壊れる予感が・・・」
だから位牌もお骨も、親戚の人が取りに来たのだ。
 雨の日が嫌いになりそうだ、どうしてこんなにも切ないのだろう。
 あの女は憐の方翼をもいでしまった・・・、少年の日の苦い記憶。

 そこは郊外の巨大なスーパーだった。
駐車場もとてつもなく広く、肉類はキロ単位で売っていたし、業者販売用のレトルト物はダンボールで天井近くまで積み上げられていた。カートを押して陳列棚を物色中にも、憐は次々と好き勝手に食べ物を投げ入れていて、スナック類や炭酸入りジュースといった食べ物はそこらの高校生と何ら変わりはしない。
だが、高揚の無い瞳の冷たさにどこと無く近寄りがたいバリアがあったが、付かず離れずの距離を保って私の横を歩いていた。
いつの間にか目線は私よりも高くなっていたし、さらさらと揺れる前髪や長く伸びた指先のしなやかさには見覚えがあって、こんな風に並んで歩くと、すべてが旨く行きそうな錯覚に陥りそうだった。
「それ以上、お菓子を入れるとぶっ飛ばすわよ!」
 ふっと、笑った懐かしい憐の横顔は、穏やかで凛としていて、私が一番見たかったものだと、その時始めて気が付いた。


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