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 Kiss Me

9




 麗音の社長室はかなり広く、そこにはパソコンが何台も置いてあって、時折彼は自分でプログラミングしたりしているようで、広いデスク上で何時間も考えこんでいるのをたまに見かけた。
 と言うのも、彼の部屋はガラス張りで仕切られていたが、殆ど瞬間調光ガラスは使わなかったので中が丸見えだったからである。
 私は都さんと並んで彼の部屋の前に机を宛がわれ、麗音が仕事に夢中になっているのを妨げる事無く、秘書あるいは諸々の仕事に専念することができた。
 秘書の仕事と言ってもまだ私は修行中の身で、各チケットの予約の仕方とかアポイントメントの取り方とか、細々したものを習っている最中で、もっぱら社内の備品の整理だとか通達メールだとかに追われている。
 在宅の社員とは電話よりメールでのやり取りが多く、個性豊かな面子が揃っているので、日々凝りに凝ったメールを送って来る。
 時には開くと爆弾のような音がしたと思ったら一瞬にして画面が真っ黒になり、ウイルスだろうかと慌てて近くにいる矢部さんを呼んできたこともあった。
 若干二十三歳の矢部さんは大柄でいて、人懐こい面差しと性格から、私がこんな時一番に相談する相手でもあった。
 何のことはない単なる悪戯メールだったが、いちいち驚く私を面白がってみんなが送りつけてくるものだから、最近では朝メールチェックするのも楽しくなってきていた。
 なんせその道のプロが作る、ウイルスもどきのメールは手が込んでいて面白い。
「今日は何ですか?」
 矢部さんが面白そうに覗き込んできた。
「春嗄(はるか)くんのメールは相変わらず手が込んでいるわ、見て、パソコンが動かなくなっちゃった」
 マウスすら動かないお手上げ状態だ。
「やるなあいつ……」
 矢部さんはクスクス笑っている。
 そんな様子を見ていた神崎さんもやって来て苦笑いを零した。
 彼は若干二十七歳ながら、ここのフロアを取り仕切っているチーフでもあり、この会社の有望社員で、もっとも平均年齢二十四歳の若い職場だからと言うわけでも無いが、男性社員の中では彼が一番の年長であることは間違いなかった。
 若いプログラマーは今時の青年で、スタイリッシュな格好をしたなかなかの好青年だった。
「春嗄は次世代ハッカーだからね、暇さえあればウイルスを作り出すことばかり考えているからな、勉強しないでこんなことばかりやってるよ。お手のものだろう。でも、これじゃ萌花さんが仕事になんないね」
 苦笑しながら神崎さんが言う。
 在宅社員の真行寺春嗄(しんぎょうじはるか)唯一高校生プログラマー十七歳、とんでもないメールを送りつけてくるナンバー1だ。
「毎日、趣向を変えていろいろ送りつけてくるんですけど、勉強しながら仕事してよくこんな暇があるものだと関心します」
「彼にとっては遊びの延長だからね、僕らがあまり驚かないので、退屈してるところに萌花さんが現れたものだから、恰好の餌食だよね」
 神崎さんが笑う。
 そして矢部さんが自分のデスクに戻って、春嗄くんにチャットで話しかけた。
「おーーい春嗄! いい加減にしろよ、萌花さんが仕事になんないじゃないか」
『はーい』
 彼はすぐ側にいたのか、カメラがオンになるとクスクスと笑い声が聞こえ、次の瞬間いとも簡単に私のパソコンが動き出した。
 後ろで学友たちが遊びに興じている騒がしい教室の中にいて、休憩時間だろうか春嗄は呑気にジュースを飲んでいた。
「おまえなぁ、朝の忙しい時間にこんなことすんなよな」
 矢部さんが注意するも……。
『ねぇ、麗音いるんでしょ?』
「いるよ。なんで?」
『さっきから連絡してんだけど取り合ってくれないんだよね。遠隔でパソコン止めてやろうかと思ったけど、流石に侵入できないようにしてやがる』
 麗音の高校の後輩でもある春嗄はいつもこの調子で、麗音が社長であるとかまったく意に介してないようだが、麗音をとても崇拝していて彼のいうことなら素直に聞くような、言わば弟的存在だ。
「ははは。そんな事したら激怒されるぞ。今は忙しいらしいからな、部屋に籠もって仕事してるよ。まあ大した用事ではないんだろう?」
『まあね』
 春嗄はクスリと笑っている。
『じゃあね、そろそろ授業が始まるから、……あ、萌花さんによろしく!』
 そう言ってカメラはフツリと切れた。
「しょうがない奴だな、麗音君が取り合ってくれないんで、そのしわ寄せが萌花さんにゆくんだ。すみません」
 阿部君も春嗄にはかなわないらしい、クスリと苦笑いする。
「いえ、私はいいんですけど、こちらこそいつも朝から騒動させて申し訳ないです」
「春嗄には注意するよう麗音君に言っておきますね」
 そう言うと、神崎さんも微笑んでその場を後にした。
 みんな朝は忙しいのに、私の悲鳴にも似たトラブルに嫌な顔ひとつせず、対処してくれて本当に感謝している。
 というか仕事自体は忙しい職場なのに、会社とか社員の持つ雰囲気に余裕が感じられて、あくせく働くというありがちな社風ではないのだ。
 こんな騒動にも関心を示さない麗音をチラリ見やると、彼は真剣な顔して仕事をしているらしかった。


 ――仕事は一生懸命するなぁ……。
 唯一、私が彼を認めるところだ。


 でも、ふと今朝の出来事が私の脳裏に浮んだ。




 何時ものようにドアを開けて中へ入ろうとした所で、綺麗な女性と玄関でばったり鉢合せした。
 もう直感で彼の情事の相手だと確信している私は、彼女に微笑んで通れるよう脇に避けた。
 流れるようなストレートな栗色の髪の毛をした綺麗な女姓は、麗音の寵愛を受けて満足げな表情で艶めいていた。


「彼は特別ね、あなたが羨ましいわ」


「え?」


 彼女は私の横を通るとき、微笑みながらそう言って去って行った。
 えええ? 
 どういう意味?
 もしかして……。
 ”彼は特別ね” 頭で彼女の声が木霊した。
「ええーーー?」
 思わず声が出た。
「何?」
 ドアを開けたまま突っ立っていたものだから、何事かと中から麗音が覗いている。
 我に帰った私は取り合えず部屋の中へ入ると、麗音の不振な顔を避けてすぐさまキッチンに入って行った。
「だから何だよ」
 麗音はカウンターにもたれて聞き返してくる。
「彼女がね、すれ違いざま私に”彼は特別ね、あなたが羨ましいわ”って言ったの」
 私はチラリと麗音の顔を見た。
「で、ずっとどういう意味だか考えていたのよ……」
「それはおまえ”セックスが上手い”ってことだろう?」 
 麗音は可笑しそうに私を見返していた。
「そうよね……」
「だろ? でも、その真剣顔にはどういう意味があるのさ」
「それをなぜ私に言う? ”あなたが羨ましいわ”って、何?」
 それが引っかかった理由だ。
「お前がオレと寝てると思ってるからじゃないのか?」
 平然と言う。
「そこよ! 問題は! なぜ私がそう思われないといけないの? あなたとは何の関係もないのに」
「ああ、それは、オレが女を口説く時に、”オレには許婚がいるんだ。それでもいいか?”って聞くからだよ。本気になられたら困るからな」
 麗音はしらっと、しかもあっさり言った。
「百歩譲ってそれはさて置き、その許婚が私だと思われる理由は?」
「ああ、どんな人? って聞くから”もうじき来るよ、僕の秘書をしているんだ”って言ってあったから」
「なんて奴なの!」
 コーヒーの豆が入った袋を投げつけようとしたら、笑いながら余裕で麗音に止められた。
「萌花、ちょとした利子だと思ってくれよ。別にいいだろう? オレはその方が都合いいんだけどな」
「そうでしょうとも! 都合よく次から次へと女を取替えて何て人なの!」
「健全な成人男子なんだぜ、当たり前だろう? それにそう言ってちゃんと最初から釘を刺してあるし、それでも彼女たちはやってくるんだから、しょうが無いだろう?」
 見せ掛けの……、いや本心かも知れないが、うんざりしたような動作をして苦笑する。
 女性に声を掛ければ凡そ百発百中の確立、黙っていても寄ってこられる彼からすれば、確かに眼中に無い女は鬱陶しさこの上ないだろうが……。
「あなた最悪……」
「じゃ、萌花、お前が僕の相手してくれる?」
「なんで私があなたの相手をしなきゃいけないのよ」
「”いいなずけ”じゃないか……」
 ふっと麗音は笑った。
 気が付くと息が掛かるほどに顔が近くにあった。
 いつの間に側に来ていたんだ?
「違う!」
「萌花、おまえはオレにとって”特別”だよ」
「ええ、ええ、分かってます! ”特別”なのは!」
 麗音は私の身体を壁に押し付けて、両手を押さえて身動きできないようにした。
 微笑んでいるその目に浮かぶのは悪戯な誘惑。
 彼の暖かい体温が重なり、その温もりに怒りが緩和されるという奇妙な感覚の自分に気づいて……、ただふざけているだけだとわかってはいても私は急にどぎまぎする。
「冗談はそのくらいにしてね麗音」
 私は麗音を睨んだが、そんなこと気にも留めずに余裕綽々で微笑んでいた。
「結婚しよう萌花」
 そう言って、彼の唇が近づいて来た……。




 ――ふう、今朝は危なかった……。


 唇が触れる寸前、やっとの思いで麗音をどかしたが、私の必死な顔を見て彼は声をたてて笑った。
”本気にしてんの”とか何とか言い捨てられて……、全く酷い男だ。
 自分だってお爺さまの株が欲しいから、そういう意味では結構本気なくせに……、これは彼にとって一種のゲームだ、私は駒のひとつでしかない。
 ぼんやりと私は麗音を見た。
 今は神崎さんと話をしている。
 私が麗音を感心するのは何事においてもかなり真剣に取り組むことだろうか、大学の勉強も送り迎えの車中で教科書を開いているのをよく見かける、……しかし、女は……違うな……。
「あ、橘さん」
 麗音の部屋から出て来た神崎さんに話掛けられた。
「そろそろ仕事も慣れたでしょうから、今日、あなたの歓迎会をしようって話でみんなもりあがってるんだけど、今晩仕事が終わってからどうですか?」
「あ、ありがとうございます。じゃあ、社長に聞いてみますね、確か今日は平常どおりで終わっていいはずだったけど確認を……」
「大丈夫ですよ、今麗音君には了解得てきました。少し遅れるかも知れませんが後から彼も来られるそうですよ」
「そうですか? 何から何までありがとうございます」
「いえ、橘さんの歓迎会ですから」
 その時、麗音が部屋から出てきた。
 真剣に仕事をしていたらしく、少し疲れたような表情をしている。
「萌花、車はオレが運転して帰るから、仕事が終わったら皆と一緒に帰っていいよ」
「ありがとうございます」
「麗音君は二次会からでしたよね? 来られるの」
「うん、すまない。必ず行くから」
「いえ、忙しいところすみません」
「いいよ」
 麗音はそう言って再び部屋に戻って行った。
「若いのに、凄腕なんですよ。あ、知ってますよね。橘さんは麗音君と幼馴染なんでしたよね?」
「ええ、でも彼が十五歳の頃までしか知らないの、それからアメリカに留学してたから、殆ど知らないって言ってもいいくらい」
「彼は私より若いですけど博学ですし、プログラミングや企業へのクラウドコンピューティングのサービスの提供などいおいて、彼より腕の立つ者はいませんよ、まあ、うちの会社はそれだけに限らず、いろいろなアプリケーション開発にも携わってるんですけどね、まあ、何が言いたいのかと言うと、彼は凄いということですよ」
 プライベートで軟派な麗音は外面が良く、社員には信頼されているようで、意外とは思わなかったけど、想像以上にできる奴らしかった。
 もしかしたらその反動が、あの過度なプライベートの女遊びにきてるのか? 
私はふとそう思った。
「橘さんはお酒飲めますか?」
「あ、ええ、嗜む程度に」
 私はにっこり笑ったが、前の職場が繁華街で夜の蝶だったなんて、こんな真面目な職場で、しかも社長を褒め称える社員の前で、そんな奴が社長の秘書をしていることは、絶対に内緒にしておかなくてはと思っていた。
 しかし、麗音がそんな細かなことを気にする奴でないことも知っていた。
 現に私を雇っているからだが……。
「良かった。今夜は楽しみましょう。僕は橘さんと一度お酒を楽しみたいなと思っていたんですよ、楽しみだな、じゃ後で」
 爽やかな笑顔を残して、神崎さんはその場を後にした。
 歓迎会や穏やかなオフィス業務、静かな携帯電話、そんな普通の生活を送れることへの嬉しさがこみ上げて来て、何となく麗音の部屋に目をやったら、パソコンから顔を上げてこちらを見ていた麗音と目が合った。


 無表情で私を見ていた。


 怒ってるようにも見えるし、疲れているようにも見える……、麗音は何を考えているのだろう。
 私の顔から笑みが消えた時、麗音は目を逸らした……。








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