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 Kiss Me

8




 
”違うでしょ? 今度は……”


 そう、私は心の中で麗音に訴えていた……。
 十五歳の麗音には少なくとも恋心が見え隠れしていた。
 しかし、今の麗音は私利私欲にかられていて、自分で言っているように”愛だの恋だの”幻想は抱いてないのはわかるけど、そんな野望に私を巻き込まないで欲しい……。
 たとえ、そんな傷ついたような顔をするのが、見せかけだけの嘘だとしても調子が狂ってしまう。
 助手席に乗った麗音の横顔ををチラリと見たが、彼は黙って前を向いたままそれ以上何も言わなかった。




 麗音が後部座席を避けて、助手席に乗り込んだ理由が分かった。
 振り向くと、後部座席はブランドの名前が印刷された紙袋でいっぱいになっていたからである。
 私はそれを見て溜息を吐いた。
「なんでもっと喜んでくれないのさ」
 不満げに彼は呟いた。
「喜ぶ? 買い物しすぎよ麗音、それにどれも私には高価過ぎて似合わないわ」
「そんなことは無いよ萌花は背も高いし似合う。それにオレの秘書にはこれくらいの格好でいて欲しいんだ」
 秘書でこのブランド尽くしだから、彼の妻となる者はさぞやもっとハイレベルを要求されるだろうと思うと、既に庶民も庶民のどん底に成り下がった私は改めて住む世界が違ったものだと、考えを改めなければならなかった。
 第一、彼の秘書として私がやっていけるかどうかの不安も付きまとっている。
 若くして起業したこの社長がやり手だろうという事は察せられるし、単にブランドの服で身を固めて綺麗にしているだけの秘書を必要としていないことも……。
「私にあなたの秘書務まるかな?」
「さあね……」
「さあね?」
 驚いて麗音の顔を見た。
「何?」
「……まあ、私が務まらなくても、有能な都さんがいるからいいわよね……」
「仕事は他にも沢山あるからな、それにおまえは運転ができるじゃないか」
「じゃあ、そのくらいに考えといてね、私はあなたの秘書が務まるとは思って無いから」
「だからオレと結婚すればいいのに」
 さっきとは打って変わってクスリと笑った。
「まだ言うの? しつこいなぁ、それは無しだと言ったわよ」
「何度でも言ってやる」
 挑発的な目線を寄越して、麗音はそう言うと微笑んだ。
 形良い唇から綺麗な歯並びの白い歯が零れている。
「どうしようもないくらい腹黒い奴ね、あなたは」
 軽やかな笑い声を耳元に聞いて、本気かどうかは分からないけど、さっきのような傷ついた顔の麗音も見たくないし、こうやって軽口を叩ける関係がいつまでも続くといいなと思えた……。




 私たちが会社に戻ってくると、応接室で白い豊かな顎鬚を蓄えた老人が、二人を待っていた。
 マロン色のスーツをビシッと着こなした彼の、そこにいるだけで威厳ある様は流石だった。
 若者だらけのこのオフィスで、彼の纏うオーラにより空気がピリリと引き締まっているような気がする。
「ジジイ! どうしたんだ?」
「お爺さま!」
「麗音! お爺さまに何てことを言うのです!」
 お爺さまの隣には都さんがにこやかに立っていて、麗音を一喝する。
 私たちは同時に叫んだが、桐生財閥の会長は恐らく自分に向かって”ジジイ”等と暴言を吐く唯一の人物、孫の麗音を無視して私に微笑んだ。
「萌花、おお元気そうじゃのう」
 そして、二人に自分の前のソファに座るよう促したと同時に、都さんがお爺さまに挨拶をして部屋を後にした。
「病気だと聞いて心配しておったんじゃ、良くなったか?」
「ええ、もうすっかり。この度は、桐生のお家の皆さんに迷惑を掛けてしまって申し訳ありません。なんとお礼を申し上げたら良いのか……」
「何を他人行儀な、お父上が亡くなってから、お前が大変苦労したことは聞いたよ。わしは何も知らなくてなぁ、申し訳ないことをした」
「滅相も無いです、何を言うんですか! とんでもないです!」
「これからは何でも相談にのるから、何かあったらわしの所に来なさい」
「ありがとうございます」
「こいつは少しは役にたったかのう?」
 ちらりと麗音を見やったお爺さまは、孫を見て”ふん”と鼻を鳴らしたが、その孫も負けず劣らずの素っ気無い態度で、椅子にどっぷり腰掛けて眉間に皺を寄せていた。
「勿論です、マンションに泊めて頂いて、しかも不甲斐なく世間知らずだった私が拵《こしら》えた借金も、払って貰っただけでもとても有難いのに、彼は私に仕事まで与えてくださいました。感謝しても感謝しきれないくらいです」
「うむ、当然の事じゃ、萌花はこいつの”元いいなずけ”なんだからな」
 お爺様は”元”を強調するように言って孫をジロリと睨んだが、肝心の”孫”はどこ吹く風で全く気にも留めていない。
「関係ないだろ、それは」
「そう言えるか? 新しい条件はどうなった麗音」
「ああ、あれか。贅沢な生活ができると宥めたんだが、萌花はオレとの結婚は嫌だそうだ」
 お爺さまは一瞬驚いたような顔をしたが、次の瞬間大声を出して笑い始めた。
「流石、わしの謹厳実直な親友、橘信三の孫だ。 益々気に入ったわい。お前は幼い頃から素直な良い子じゃった。だから信三と話をしてわしらの孫同士で”いいなずけ”を決めたんじゃが、わしの孫が不甲斐なくて申し訳ないなあ。わしがもっと若かったら萌花を嫁に貰っとるがのう」
「誰が不甲斐ないって?」
 麗音が祖父を睨んだ。
「おまえじゃ!」
「何が”わしが嫁に貰う”だ。好色ジジイに言われる筋合いは無いぞ」
「ふぁふぁふぁふぁ、お前の素行調査させてもらったが、わしの若い頃と変わらぬがのう」
 お爺様は含み笑いをして麗音を見た。
「なに素行調査なんてやってんだよ!」
 麗音の目が細くなる。
「わしとて、大事な会社をこれから誰に託して良いものか、日々考えておるんじゃ。わしの選択ひとつで社員を路頭に迷わすことはできないからな」
「オレは興味ない」
「会社には興味無くても、わしの株には興味あるだろう? でも残念じゃな麗音、萌花はお前との結婚は嫌か」
 そう言って、再び”ふぁふぁぁふぁ”と、声高らかに笑った。
「萌花、まあ、幸いわしには四人の孫がおる、丁度、こいつの兄の翔はじき三十歳が来るが、そろそろ結婚しても良い年だ。萌花が翔と結婚してくれたらわしの株を翔に譲ってもいいが……」
「ジジイ!」
「なんじゃ」
「翔を出してくるのはずるくないか?」
「なんでじゃ、それもこれもおまえが萌花の心をつかまえられないからじゃろう?」
「言ってろ……」
「わしはなぁ、亡くなった信三に申し訳なくてのう……、あんなに固い約束をしたのに、それが守れないことだけが唯一の無念じゃ」
 お爺様の後悔が見て取れた。
 祖父たちは仲が良く日本庭園を望む我が家の縁側で、二人で茶を飲みながら将棋や碁に興じている姿が未だ目に浮ぶ……、その場所でお互いの会社や家族の話など、大切で親密な話が幾度も交わされたことであろう……。


「どうだ萌花? わしは本気じゃぞ、麗音が嫌なら翔はどうじゃ?」


 ――か、翔さん?!


 懐かしい名前だ。


「滅相も無いです、あんな立派な人なんて! 私はまだこれから麗音に貸してもらった借金を働いて返す身で、結婚だなんて考えてもいませんし、まして桐生家の人となんて、恐れ多くてとんでもない話です」
 今となれば翔さんなんて、雲の上の人でしかないし、まして横の麗音さえ遠くに感じてならないと言うのに……。
「うん。益々気に入ったぞ萌花。でも、そんなに麗音が嫌か? しかしのう、結婚なんてしてみて始めて愛情が生まれる場合もある、昔はそういったものじゃったが……」
「お爺さま、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんじゃ?」
「お爺様はどうして麗音をそんなに薦めてくれるのですか?」
「それはじゃの、こやつはワシに一番似とるからじゃよ、仕事も一生懸命するかわりに女遊びも死ぬほどしとるわい」
「ジジイてめぇ何が言いたいんだよ……」
「……総じて口も悪い。じゃがのう……、ワシが一生アデールと暮らしたように、こやつもきっと結婚したら真面目になると思っとる。萌花どうじゃ? 一度麗音と結婚してみれば?」
「お爺さま!」
「麗音、お前も散々女遊びしてる割には、甘いでないか。肝心な萌花の気を惹んとは」
「忘れてないかジジイ、オレはまだ今年二十二歳になったばかりだぞ、しかも大学生だし結婚なんてオレには早すぎる」
 お爺さまの前でそれを言うか麗音!
 私を散々口説いておきながら……。
「まだ遊び足りないか」
「そういうこと。 ――と言うより、まだ誰かに縛られたく無いね」
「そんな悠長なこと言ってたら萌花は翔に取られるぞ麗音」
 お爺様は愉快そうに含み笑いをした。


「オレが本気になったら、萌花はすぐオレの手に落ちるさ」


 麗音は自信満々にそう言って、鷹揚に微笑んだ。


「こりゃまた、ぞんざいじゃのう」
 お爺様は再び笑っていたが、私は麗音が見せる自信の根拠に、何があるのだろうかと考えていた。
 すると、ふと視線が絡まった麗音の瞳の奥に煙る、優艶でいて官能的な炎を垣間見たような気がして、私の心臓はゾクリと震えた……。








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