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 Kiss Me

25


 
 今日で翔さんに会うのは五度目だ。


 会社の帰りに何度か食事をして、会話を楽しんだりしている。
 最初は緊張したが、翔さんとの話題は昔話に始まって、彼のアメリカ生活の話や家族のこと、そして普通のOLでは聞けないような話しとか、興味深い話題は尽きることなく、私が徐々に翔さんと居ることに緊張しなくなると同時に、そう言った普通の会話をする事が楽しくなってきたのだった。
 桐生財閥のアメリカ支社に翔さんがいたことも知らなかったし、ましてそこで麗音と一緒に住んでいた事など夢にも思わなかった。
 麗音について私は本当に何も知らないのかも知れないと改めて思う。
 勿論、翔さんのことも……。






「デュフィ好き?」


 私がデュフィの絵の前から、暫く動けなくなっていたのを見て翔さんが声を掛けてきた。
 今日は翔さんに誘われて「現代フランス巨匠画家」という、展覧会が開かれている美術館に二人で来ていた。
 昔、私が美術を習っていたのを知っていた翔さんなので、好きだろうと誘ってくれたのだ。
「はい。詳しくは無いんですけど、デュフィの色使いが好きなんです」
「うん、いいね。僕も好きだな」
 翔さんも微笑んでじっと絵画を見ていた。
 カジュアルなジャケットを着た翔さんはいつもよりぐっとくだけた服装で若々しくて、とても麗音と八歳も年が違うようには見えない。
 ちょっとドキドキするのは、私が翔さんを好きで、ずっと見つめていた高校生だった頃の彼の姿がダブるせいだろうか……。
 今となれば切ない思いでだが、胸がキュンとはなっても、それが悲しく無いのはどうしてだろう。
 再び会うことができて、こうして同じ時間を共有できることの喜びだろうか、それともあの幼い頃の恋心は既に消化できたと言うのだろうか……?
 でも、それは少し違う気がするような……。
「……でもね、家に掛かっているのは祖父の趣味で、日本画が多くって……」
 物思いに耽っていると、翔さんの声がふと耳に入って来た。
 そう言って翔さんは苦笑するも、あのお屋敷に掛かっているとなれば、相当な額の日本画に違いなかった。
 彼は実家で祖父や両親と一緒に暮らしている。
 それは会社のことなど諸々を家族で話し合うのに良いからだと、以前、食事をした時に言っていた。
 もともとお屋敷自体がとても大きいので、部屋は有り余る程あったし、麗音のように毎夜女性を連れ込むような、悪さとは無縁の翔さんには何の不自由も無いのだろう。
 そして翔さんは間違いなく、これからの桐生財閥を担ってゆく人物に違いなかった。  だから、もしかしてお爺さまは、会社は翔さんに、自分の株は麗音に譲ろうとしているのかも知れない……。




 付かず離れずの距離で私たちは絵画を鑑賞して回った。


 美術館の室内は程よく人が入っていて、込み合うわけでもなくゆっくりと楽しむことができる。
 その間に私はこっそり翔さんの様子を盗み見した。
 後ろから見ると肩のとか骨格背格好は本当に麗音と似ているが、短めの髪の毛やその色は全く異なり、翔さんがそこに佇む仕草の落ち着きは、流石に三十の男盛りを感じさせる魅力に満ちていた。
 私が憧れた彼が、あの頃のまま素敵でいてくれたことに、いいえ……もっと魅力的になっていたことが嬉しかった。
「君にさっきのデュフィのポスターを買ってあげたいんだけどいいかな?」
 美術館の入り口脇のミュージアムショップの前を通り掛かった時、翔さんがそう言って私に尋ねた。
「今日の記念にね」
 翔さんは優しく微笑むと店内に入って行き、並べられたパネルの中のポスターを自ら吟味して、その中からさっき私が立ち止まって見惚れていた、デュフィの「天使の港」を選び出した。
「これでいい?」
「でも……」
「安いポスターで悪いんだけど、今日の記念になるだろう?」
「安いだなんて、私には十分です」
「じゃあ、決まり」
 翔さんは早速レジにそれを持って行と、あっさり買い求めて来た。
有能なビジネスマンらしく、思わず微笑んでしまうほど行動も決断もテキパキと早い。
「何笑ってるの?」
「やっぱり血は争えないなぁと思って」
 翔さんは首を傾げた。
「麗音もそうですけど、決断も行動も早いのは有能な一家の血筋ですね」
「ああ、そうかもね。迷ってたら期を逃すからね」
 そう言う翔さんの瞳は、優しい眼差しでじっと私を見ていて、照れくさくなって何となく視線を外したのは私の方だった。


 何だかドキドキする……。


 麗音の時とは違う意味で……。
「じゃあ、お礼にはほど遠いですけど、まだ四時ですし、お茶を私におごらせて下さい」
「いいね。じゃあ、夕食は僕がおごるよ」
「ダメです!!! ランチおごってくださったばかりじゃないですか!」
「それじゃ、お茶おごられてやんないよ」
「なんですかそれーーっ!」
 翔さんは穏やかに微笑んだ。
 彼の笑顔は私に安心感を与えてくれる……、そしてとても心地よい。
「これでも、働いているんですよ、たまには私にもおごらせて下さい! いつもいつも翔さんにおごってもらってばかりで嫌なんです」
「だって僕は君のお給料よりは貰ってると思うよ。だから僕がおごるのは当然なんだよ。さ、お茶をおごって貰おうかな。ケーキも食べていいかい?」
 あえて突っ込みませんけど、そうですよあなたは私のお給料の何倍も貰ってますってば!
 そんなことを嫌味無く言えるのは彼しかいないだろう。
「えーえー、好きにしてください。どうせ何を言っても却下されそうですね」
 クスクス笑う翔さんに私は背中を押されて、ミュージアムを後にした。
 その心地よいくらいの押しの強さも、誰かさんと引けを取らないだろうと、このときふと思った……。
 でも、なぜいちいち私は翔さんの総てを麗音と見比べているのだろうか……、どうしても私の脳裏から麗音が消えてくれない……。









 あの男は、どこまで嗅覚が効くのだろう……。


 夕刻、どっぷりと日が暮れた頃に、私たちが小洒落た日本料理店で夕食を取っていたら、麗音からいきなり私の携帯に電話が入った。


『……萌花……?』


「何?」


 ん?
 なんか様子が変?


『……今どこ?』
「外で食事してるけど?」
『……悪いけど、今すぐ風邪薬を買って来てくれないか?』
「風邪ひいたの?」
『……らしい、さっきから熱がどんどん上がってこのままじゃ明日起きられなくなりそうだ……』
「病院行けば?」
『……』
「麗音? 麗音?」


 そして電話は”プッ”といきなり切れた……。


「あいつ何だって?」
「風邪引いたから薬買って来てって言ってるの……、病院に行けばいいのに……」
 翔さんは腕時計を見て時間を確かめた。
「そうか、風邪薬買うより様子見に行ってみよう。それから主治医を呼んでも遅くないだろう、君もいいかい?」
「ええ、明日出勤できるか私も様子見に行きます」
 それから私たちは残りの食事を素早く片付けて、翔さんの運転する車に乗り込むと慌てて麗音のマンションに向かった。


 マンションに着くと、エントランスから迷わず部屋まで直行する私を、興味深げに見ていた翔さんだったが、部屋に入るなりリビングの床に落ちて割れたグラスに顔色を変えて、麗音の名を翔さんが呼んだが返事は無く、私たちが開け放された寝室を見やると、そこにジム帰りだったのだろう白いパーカーを頭から被って、ベッドの上でうつ伏せにそのまま倒れている麗音を見つけた。
「おい、麗音! 大丈夫か?」
 翔さんが慌てて駆け寄り、顔まですっぽり覆ったフードを後ろに払った。
 目を閉じたままの麗音から返事は無く、やけに赤い顔して息を荒げている。
 私ったらこんなに具合悪い麗音に病院に行けと、突き放してしまった事を酷く後悔した。
 考えてみたら余程のことが無い限り、私に助けなんて請わないだろうに……、そんな後悔を胸に秘めながらじっと彼等を見下ろしていた。
「凄い熱だ。まずいな、まあ風邪には違いない。取りあえず医者を呼ぶよ、萌花は体温計探してくれるかな?」
「はい」
 確か洗面所の戸棚で体温計を見た覚えがある私は、急いで向かうとキャビネットの中を開けて驚いた。
 中に今までずらっと並べられていた、女物の化粧品やトワレ、そして歯ブラシなどがごっそりその場所から消えていたからである。


 どういうこと?


 すっきりと片付いて、中にあるのは麗音が普段使うだろうの日用品が整然と並んでいるだけだった……。
 確かに、彼女らに朝顔を合わすことは無くなったけど、ここでのお泊りも禁止にしたのだろうか?
 アナウンサーの彼女とは別れたと言っていたし(殴られたけど)、大学生の彼女は別れないと私に宣言したし……、髪の長い女優顔の彼女は単に楽しみたいだけのようで、麗音に固執してる風には見えなかったから、彼女のことはどうなったのか何も聞いてないけど……聞ける立場でも無い……。
 驚いたことに、何れにしても少しずつだけど、麗音の身辺はきれいになりつつあるようだ……。
 少しは私が危害を加えられて反省してくれたのだろうか……、だったら本当にちょっぴり嬉しい……。




 麗音は……変わりつつあるのだろうか……?




 ――って、今そんなこと考えてる場合じゃ無かった。


 私は戸棚の中から体温計を取り出すと、それを持って麗音の寝室に急いだ。

 

   

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