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 Kiss Me

20


  後で冷静になって考えてみたら、暴言とは言え私は怒りにかまけて雇い主を会社に残してさっさと帰ってきたことについて、かなり大人げなかったと大いに反省した。
 例え気まずくても彼を待っているべきだったのだ……、一会社員としてはあるまじき行為で、麗音が社長で無かったら早速クビを言い渡されても仕方のないほどの事だろう……。
 下手に幼なじみだと言う関係は危険で、なれ合いの延長線上に会社員としての人間関係が構築されると、私の最悪の欠点は増長されて相手への尊厳無しにダイレクトに態度や顔に出てしまう……、そして麗音の性格を知っているが故、怒らす手段も心得ていてあっと言う間に点火スイッチを押してしまうのである。
 それが私の雇い主でも……って、私って所謂痛い女なのだろう……そして最悪。
 でもお陰で少しばかり目が覚めた。
 麗音が社長でなかったら私は怒りをぐっと堪えて、寧ろ反省をして耐えただろと思うと、それが麗音の前で出来なかった自分が恥ずかしい……、いい加減大人のつもりだったのに全然、まだまだ……だ。
 無理難題を言ってくる横暴な社長や人を見下すような社員など、もっと酷い会社は幾らでもあるだろう。なのに宿無しのどん底生活から麗音に拾ってもらって、やっと生活の立て直しを始めることが出来たと言うのに、彼の横暴で高慢な態度の裏に隠された、何気ない気遣いや優しさをすっかり忘れてしまって、私こそ稚拙で傲慢な自分が少し情けなかった。
 私は彼に雇われている身なのだから、あのくらいの言葉は我慢するべきだったと思うと、社会人としての質を問われたような気がして落ち込んだ。
 私は麗音の働く姿を見るのは好きだ。
 真面目な顔で一生懸命な姿は昔の麗音とダブって、少しだけ近くに感じられるし何より信頼できる気がした。
 だから側に居れて嬉しいのだけど、反面、仕事上どうしても麗音のプライベートに踏み込むのは必須で、彼の女性関係を知る度にバブルのように胸が騒いで苦しい……、少し距離を置いた方が望ましいような複雑な心境だ……。
 何れにしろ麗音は私の中で、大きな存在に違いない……。
 昨夜、喧嘩して下を向いてしまった麗音の怒った横顔が、私の脳裏に浮かび心がチクチクして切なかった……。




 でもね……、麗音もあの言い方は無いと思うんだけど……。




 そういうわけで、今日は長い髪の毛を後ろでひとつにひっめて、ほとんど化粧も施さずほぼすっぴんに近い素顔に、昔、夜の商売をしていた頃に、昼間のオフィス街で私と見破られないよう、変装用に購入していた度の入っていない黒縁眼鏡に、元々持っていた何の変哲も無い地味なスーツを着て駐車場に車を止めると、気合を入れるようにスーツの裾を引っ張って正し、そして麗音の部屋へと向かう為に歩き出した。
 いつも通りエレベーターで上がり長い廊下に出たとき、前から一人の女性が歩いて来るのが見て取れた。
 フェミニンだがハイクラスを思わせるブランド服に身を包んでいる女性……。
 ああ、そっか……、見たことあると思ったらアナウンサーの彼女だ……。
 私はいつもの通り彼女らと鉢合せした時の同じ動作で、目を伏せ頭を軽く下げすれ違う。


 ――はずだった……。


 目の前の彼女は、何故か私の前で立ち止まった。
 どうしたんだろうと、ふと目を上げると……。


 バッチーーーーーン!


 大きな音がして、私は頬を彼女に殴られた。


 ええええーーーーーーーっ!
 痛ったーーーーい!


 一瞬、何が起こったのか把握できない……。


 彼女はまだ怒った顔をしていたが、平然と私を見据えていた。
 整った顔立ちが固まっていて、能面のように見えてより恐ろしさを添えている……。


「あなたなんか居なければいい……」


 一言、そう言い残すと、彼女は去って行った。
 私はあまりの驚きに左手を頬にあてたまま、右手でずれた眼鏡を直すのが精一杯だった……。




 なによこれ……?!


「麗音ーーーーーっ!」


 ドアを開けるなり玄関口で私は叫んだ。
 私の剣幕に驚いたのか、麗音は直ぐに顔を出した。
「何……?」
 どかどかと入って行くなり、私はジンジンして赤くなったであろう頬を突き出した。
「殴られたーーっ! 痛い!」
「え?」
 その時、麗音の顔色が変わった。
「誰に……」
「彼女! アナウンサーの! そこですれ違ったの、通り過ぎるかと思ったら、私の前で立ち止まって殴られた……」
「…………」
 一瞬、言葉を失っていた麗音だったが、我に返ると直ぐにキッチンへ行き、氷でタオルを冷やして持ってきてくれた。
 その麗音の顔は近年見たことも無いようなマジ顔で、酷く心配してるのが見て取れた。
「ごめん萌花……」
 そう言いながら私をスツールに腰掛させて、頬にタオルをあててくれながら私の涙目になった顔を覗き込んでいる。
「痛いよ麗音……」
「ほんとごめん萌花……」
 眉を潜めた麗音はそっと私を胸に抱きかかえた。
 頬はまだジンジンと疼いていて、本当に泣きそうだ……。
 シャワーを浴びたばかりだろう石鹸の香りと、いつもの麗音の香りが混ざって鼻をくすぐる。
 胸から伝わる体温が心地良い……。
「”あなたなんか居なければいい”って言われた……」
「あいつ……」
 背中に回された麗音の指がきつくなるのを感じる。


 違うと思う……、私は心の中で呟やいた……。


「でもね麗音、彼女が悪いんじゃないと思う。あなたが悪いのよ……」
「……」
 麗音は黙っていた……。


 わかっているのだろうか……、女性は感情の無い玩具じゃないんだよ麗音……、いくら釘を刺したと言っても日々感情は上下するのだから、まして恋愛中は天秤のように心が揺れるでしょう?


 まさかどこかに心を置いてきたりしていないよね……麗音……。


「明日から私はもうここに来ないから麗音が駐車場まで降りてきて、私は車で待っているから……」
「嫌だ……」
「私も嫌よ、殴られるのはごめんだわ」
「わかった。二度とこんなことが無いよう気をつけるから、ほんとうに萌花ごめん……」
「……うっ……」 
 優しい言葉に安心すると、思わず涙が零れた。
 麗音は軽い気持ちで私を抱きしめてくれるけど、私はこの胸の中で安らぎを求めていいのだろうかと考える。
 慣れ過ぎると後が辛い……。
「泣くなよ……」
 そう言って一層きつく抱きしめる。
 その力強さと温もりが萎えた心に安らぎを与えてくれて、私は麗音の腕にすっぽり抱かれて心地良かった。


 誰でも……、無造作に抱くんだね……麗音。


「麗音……」
「……ん?」
「……昨日はごめんね……」
 麗音の返事は無かった……。
「私、時々我が儘でごめんね……、今の生活ができるのは麗音のおかげなのに、そんなこと直ぐに忘れちゃって……、本当に……麗音には感謝してるんだからね……」
 やはり麗音からの返事は無かったが、私の肩を抱く麗音の指先に力が入ったのは返事だろうか……。
 顔が見えないことを良いことに、私は昨夜から渦巻く胸の中の蟠りを吐き出した。
「麗音の前では嫌な顔もしてしまうし、言いたいことも言ってしまう。プロに徹することができない私は会社でも、プライベートでも麗音に甘えてるんだわ……。偉そうなこと言って社会人として失格よね私……。できるだけ早く自立できるよう頑張るから……」
「だからオレと結婚すればいいのに」
 顔を見なくても麗音が笑っているのは分かった。
「やめて……今は冗談言う気分じゃないの……」
「何だよ、オレのせいで殴られて、その上感謝までしてくれてんの?」
 自虐ネタは麗音の照れだと言うことも私は知っている。
「茶化さないで」
 私が怒って麗音の脇腹を抓ろうとすると、麗音は身を捩りながら逃げて、私の前にあったスツールに腰掛けた。
「何だよ今更、オレは萌花のこと全部知ってて雇ったんだから……」
「麗音……、ごめんね」
 きっと頭の良い麗音のことだから、私のことなんてすっかり見透かしているに違いない……、そう思うと年齢なんて関係無いんだなと気づかされる。
 つくづく麗音の人間的度量の大きさに改めて関心させられ、そして私は自分の不甲斐なさを思い知らされた。
 さっきまでの私の真剣反省モードが利いたのか、私のへこみ具合が面白いのか、悔しいけど麗音はもう完全に笑顔モードだ。
 でも、どうしてだかそんな麗音を見て私は嬉しかった。
「昨日はあれからどうしたの?」
「勿論、タクシー拾って帰ったさ」
 そうよね……私が不甲斐ないばかりに……。
「ごめんね麗音……、本来なら待っていなければいけないのに……」
「別にいいよ」
 麗音は笑っている。
 でも、それに甘えちゃいけないのよね……。
「私ね何年かかるか分からないけど、できるだけ早くあなたに借金返して、別の会社を探そうと思ってる……」
 すると直ぐに麗音の顔色が変わった……、また怒らせたのかな?
 目を細めて訝しそうに私を見ている。
「どうして?」
「どうしてって……、このままじゃ私はあなたに甘えっぱなしだもの……」
「甘えたらいいじゃないか……」
「駄目」
 完全否定の言葉に麗音は黙り込んだが、次に何か言い出すのを待っているかのように、じっと真顔で私を見ていた。
「これ以上、あなたに迷惑掛けたくないし、何より自分自身が駄目になってしまう」
 私がそう言うと、麗音は”フッ”と笑顔を見せた。
「まあ、好きにすれば? どうせ借金払い終わるの何年も先だろうし……」
「うん……、それは……ほんとごめんね」
 それについては弁解の余地無くて、恥ずかしさに頬が染まるのが自分でも分かった。
 ああ、恥ずかしい……。
 そして意外にも、麗音は再びその胸に私を優しく抱きしめた。
「馬鹿な奴……」
 そう呟いたが……、顔は見えないけれどその声のトーンで彼が微笑んでいるのが感じられ、そして麗音は私が考えているより、ずっと大人になっていたんだと改めて思い知らされたのだった……。




「しかし……おまえ……」
「なに……」
 しばらくして麗音はいきなり私を引き離して、再び私の顔をマジと覗きこんだ。
 そして口元を綻ばせてた。 
「嫌がらせもいい加減にしろ……、何だよ、そのほぼノーメイクにひっつめ黒眼鏡は……」
「あ……、忘れてた……」
 そうだった……。
 そう言えば今日のあてつけ全開モードの格好を、さっきのパニックですっかり忘れていた。
「麗音があんなこと言うから……」
 彼は大袈裟に溜息を吐いて見せた。
「まあな……、重ね重ね悪かったよ……。オレだって仕事がめいっぱい立て込んでてイライラしてたんだ。あたり散らして悪かったと思ってる」
「へえ、意外。あなたでも謝ることがあるのね」
 さっき懺悔したばかりの私の暴言に、”チッ”と、冗談交じりに麗音が顔を顰めた。
「……ごめん、また言い過ぎちゃったね、これがいけないのよ」
「まあ、今はプライベートだから許すよ。でも萌花……、オレはそんなに酷い奴か?」
「うん、時々ね」
 麗音は天を仰いで悪態を吐いた。
「とにかく今日は降参するよ、彼女の事は何と言われても仕方がない」
「そうよ」
「ごめんな……」
 急に真面目な顔して麗音は謝った。
 傷ついたのは私なのに、麗音の長い睫の奥の瞳は陰りを帯びて私を見つめるので、これ以上責めることができなかった。
「見せて……」
 そう言うと、私が頬にあてていたタオルを取り、麗音は腫れがまだひいてないか確認していた。
 すると、彼は顔を近づけたかと思ったら、私の頬にいきなりキスをしてきた。
 しかも唇すれすれの確信犯……。
「ちょっと何すんの!」
「おまじない」
 急転直下、いつものおふざけ麗音に戻って微笑んでいる。
「いらないから」
「唇じゃなかったから拗ねてるのか?」
「ち が う!」
 悪戯な瞳が私を見返している。
「翔とはもうキスしたのか?」
「なっ、何を言うかと思ったら!」
「なぜ赤くなる」
 真面目な顔して傷ついたような振りはやめて欲しい。
 微妙に心が騒ぐから……。
 この、策略家!
「いきなりそんなことを言うからよ」
「したのか?」
「してない!」 
 ニコリと麗音は微笑むと顔を近づけながら、両手で私の頬を挟みにかかった。
「じゃあオレがしてやる」
「なんでよ! 違うでしょ! あんたはキス魔か! やめなさい麗音!」
 私は麗音の手を払うのに必死で、いつしか頬の痛みもすっかり忘れていた。




          
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