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 Kiss Me

19


「あの……ひとつ聞いていいですか?」
 目の前で穏やかに微笑みかけてくる翔さんを、私は真っ直ぐ見ていた。
「なんだい?」
「翔さんは彼女いないんですか?」
 意外な質問だったのか、彼は一瞬驚いたような顔をして微笑んだ。
「うん。今はいないんだ。どうして?」
「だって、彼女がいたら彼女に悪いかなと思って」
「そうだね、きっと特別な人がいたら萌花を誘うことはできないだろうね」
 その時、ワゴンに乗った綺麗に飾られた美味しそうなドルチェが運ばれてきたが、もうお腹がいっぱいの私は一種類だけお願いしてお皿に乗せてもらった。
 ずっと微笑んだままの翔さんの笑顔に、軽い緊張を覚えるのは私がまだかなり翔さんを意識しているのに他ならない。
 麗音を前にすると何が起こるかわからない不安定な感情の浮き沈みがあるが、翔さんの場合はどっしりと落ち着いていて安定感があり心が安らぐ、彼らは見かけと同様に中身も正反対で、向かい合う私の方もそれぞれの対応の仕方がかなり違うと思う……。
 ――で、どっちが好きかと聞かれれば……。
「……かな?」
 ぼんやりしていて翔さんの言葉を聞き損じてしまった。
「ごめんなさい、もう一度お願いします」
「さっきの答えを貰ってないけど、返事をくれないかな?」
「あ……、はい。私でよかったら……」
「勿論、萌花が良いよ。君と居るとなんだかほっとするな」
 彼はずっとにこにこと微笑んでいた。
 私には翔さんがどういうつもりで私を誘っているのか分からなかったが、一緒に食事をして楽しかったし、何より彼が醸し出す包容力になんだか安心できた。
 最近いろいろありすぎて、少しばかり身体も心も疲れているのかも知れない……。
 私は真っ直ぐに私だけを見ていてくれる、ちょっぴり甘えられる相手が欲しいと思った。
 でもそれは、ずるいことなのだろうか……。




 とある日の午後、会社の休憩室で食後のコーヒーを飲んでいた時、携帯に姉麻里奈から一通のメールが届いた。
 何でも現在付き合ってる大学教授と結婚することが決まったから、その結婚式にぜひともフランスまで来て欲しいと言うことだった……。
 私が飛び上がるほど驚いたのは言うまでもない。
 どうして今なの???
「えええーーーー無理だよ……」
 思わず私はひとり呟いた。
 麗音に借金してる身でフランスなんぞに行けるはずが無い、でも行きたい〜〜〜。
 たったひとりの姉だし、フランスだし……、でも無理だ……お金が無い。
 どう考えても無理なことに、私はがっくりと項垂れて机に突っ伏した。
 やっと明日がここに来て始めての給料日で、麗音から返済は幾らでもいいとは言われているが、生活費と幾らかの日用品を買うお金を残して、出来るだけ返済をしようと思っている。
 少しでも早く麗音への負い目を軽くしたかったから……。
 だから旅行に行く余裕なんて全く無い。
 麗音は時々優しい……、利子も取らず今月の生活費も含めてお金を貸してくれたのだ、しかも返済金額は私が払える分でいいと言う。
 生まれたときからお金に困ったことがない麗音は、そのあたりとても無頓着で寛大だが、いつまでも彼に甘えているわけには行かず、返済をきっちりしようと思った矢先に麻里奈の結婚話……、お祝いの品も買わなくちゃいけない、これは私がフランスに行けなくても絶対に譲れない。
 それと初給料がでたら聖駕に食事をおごると約束している、この二つはどうしても外せない。
「疲れましたか? 萌花さん」
 その声に顔を上げると、コーヒーカップを持った神崎さんが傍らでにこにこしながら立っていた。
「そこいいですか?」
 彼はテーブルを挟んだ前の席を指さした。
「どうぞどうぞ」
「もう慣れましたか?」
「ええ、すっかり。皆さんには良くして頂いて感謝しています」
「良かった。みんな嬉しいんですよ、ここは女性社員は都さんしかいないでしょ? 若くて綺麗な萌花さんは大歓迎ですよ」
「またー、そんなこと言ってたら都さんに叱られますよ」
「違いないね」 
 神崎さんはクスリと笑った。
 この頃ではこういう軽い会話もでき始めて、少しだけ自分の居場所ができてきたような気がする。
 そして麗音には本当に感謝している。
「あの……、神崎さんはこの会社の設立の時からいらっしゃるんですよね?」
「ああ、そうだよ。彼がアメリカから帰って来たときに、彼と僕の共通の友人から麗音君が会社を起業するらしいから、働いてみないかと誘われたんだ。勿論、転職になるから僕も悩んだんだけどね、麗音君が桐生家の孫だと言うことは知っていたから、ある程度は将来も見込めるし大きな後ろ盾はかなり魅力だと思ったんだけど、麗音君と一緒に仕事してるうちに、そんなものは関係なく今では彼の仕事ぶりに心底関心してるんだ」
「麗音も神崎さんがいてくれてほんとうに助かってるみたいですし」
「僕なんか彼の足元にも及ばないよ。麗音君はなんて言うかカリスマ的魅力がある人だよね、現にあの気難しい春嗄(はるか)が懐いてるのも彼だけだしね」
「春嗄くんねぇ……、昔の麗音みたいですよ、そっくり。類は友を呼ぶんじゃないんですか?」
「確かに、かも知れないね」
 私たちは思わず笑ってしまった。
「実際、春嗄は将来他社に引き抜かれると厄介な人物になりうるからね、うちで働いてくれるのは麗音くんのお陰だと思いますよ」
「春嗄くんの能力ですか?」
「ええ、 彼は希代《きたい》のハッカーですからね。麗音くんに負けず劣らずの」
「へえ、凄いんですね」
 そう春嗄くんが誰かに似てると思ったら、麗音に似ていたんだわ!
 私がパソコンをクラッシュする度に呼び出して、いつも簡単にあっさり直してくれた麗音……、あの頃の麗音は素直な美少年だった。
 何時の間に、どうしようもなくあんなに捻くれた青年になったのだろう。


 その時、その大人になった本人から部屋に来るよう遠くから声が掛かった。
 ランチから戻ってきて部屋に入る所らしい。
 自分の部屋のドアを半分開けたまま、さっさと来るよう気難しげな顔して指で手招きしている。
 仕方なく私は神崎さんに挨拶をして、麗音の部屋に向かう。


 私が麗音の部屋に入って行った時、側に立っても顔も上げずにパソコンから視線を動かさないで言った。
「今日、少し遅くなるから……、多分七時か八時くらいまでかかるかな……」
 そう私は運転手も兼ねているから、麗音の仕事が終わるのを待たなければならない。でもそれは別に苦痛でも何でもない、私に今日は特に仕事らしい仕事があるわけでは無かったから、雑誌とかネットで小説とかDVDとか見て好き勝手できるのだ。
 そういう事は麗音が黙認していた。
「はい」
「デリ頼んで夕食を食べていてもいいから、邪魔しないよう勝手にしててくれ」
 邪魔するわけないじゃない! と反論したかったが……。
「それとさっき頼んだコピー取ってくれた?」
「あ、ごめんなさい。休憩が終わってからしようと思って……」
 麗音は最後まで言葉を言わさないよう大袈裟に溜息を吐くと、顰めた顔をパソコンから上げて私を見た。
 しまった……、会社では何事にも仕事優先の彼はこういう事に厳しい。
「萌花、オレの言った命令は、社員とのくだらないお喋りよりも優先してくれ」
「くだらないって……」
 まったく持って横暴な社長だ、しかし、その先の文句を言いよどんだのは、その瞳に浮ぶ起爆装置を発見してしまったからだ……。
 何故だか酷く激怒している。
「何?」
 麗音は相変わらず険しい目をして私を見て言った。
「何が何って?」
「くだらない問いかけはやめろ。不服そうだな……、神崎さんと話をしてるのを中断されたから怒ってるのか?」
「何を言ってるの?」
 思ってもいなかったことを言われて、徐にたじろいでしまうではないか……。
「ここで社員に色気振り撒くのはやめろ」
「何ですって? 色気振り撒いてるですって?」
 思わず声が上擦った。
「ここではやめてくれ、せいぜい翔に取り入るんだな」
 な……、何を言ってんだこいつは!
 そして、どうしていきなり翔さんがここに登場するのよ! と、憤慨しながらも動揺に頬が熱くなるのが自分でも分かった。
 うわっ、真っ正面で見ている麗音の顔が更に険しくなる。
 きっと私が赤くなったのが気に入らない証拠だ……。
「翔さんは関係ないでしょう!」
 私の言葉など全く無視して麗音は言う。
「……おまえ、最近化粧濃くないか?」
「あ……のねぇ、濃くないわよ。変わりません! それにあなたが小奇麗にしてろって言ったんじゃないの! 見当違いの難癖つけるのやめてもらえない?」
 私は麗音のデスクの前に立ったまま、彼は座ったっままでお互いを睨み合っていた……。
「もういいから出て行ってくれ」
 そう言って、ハシバミ色の瞳は突然の会話断絶を決め込み、いきなり帳《とばり》を降ろすと私から視線をあっさり剥がした。
 何なの一体!
 人を激怒させといて、もう用済み追放ですか!
 麗音の目が更に細くなっている、これは怒っている証拠だが、”色気振り撒いてる”なんて酷い言いがかりだ。
「麗音!」
「出て行け、帰りはタクシーで帰るから先にさっさと帰れ」
 うーーーっ、ムカツク!
 回れ右して社長室のドアを思いっきり閉めたので、その大きな音にフロアにいた社員全員振り向いたが、怒りが収まらない私は更にトイレに駆け込み呻いたのだった……。




                
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