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 Kiss Me

18



 オフィスで仕事をしている人は、大抵みんなヘッドフォンを着けて音楽を聴いている。
 各小部屋は持っていないが一人ひとりのブース面積が広いので、皆それぞれ私考により思い思いにデスク周りを好き勝手に飾り付けていて、阿部君のところなどはアイドルの写真から漫画のフィギュアで溢れかえっていた。
 その中に入ろうものなら神聖な神域を荒らす者みたく扱われる。
 よって、各ブース内は個人の管轄で整理整頓を任されていた。
 定時は五時半なのにみんなきりが良い所で終わりたいから、きっちり退社時刻に帰宅する者など居なかったが、まあこの会社では時間はあってないようなもので、残業が無いかわりに仕事をいくらこなしたとか、その質による定義で給料が支払われる仕組みなので、オフィスも遅くまで自由に使うことができた。
 反面、給料体制が違う都さんは余程のことが無い限り定時に帰る、私もその後に続いてみんなに挨拶を済ませると、麗音の部屋を覗き見た。


 お、真剣に仕事をしている。
 少しばかり疲労の色が濃い麗しの顔だが、真剣に仕事をしている様は悪くない。
 いつもあんな真顔だったらいいのに……なんて思っていたら、じっと見ている私に気がついて睨んできたので、ドアを開けて挨拶をする。
「じゃ、先に帰りますね」
「……ああ」
 ぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「何時になるか分からないけど、私が帰ってきたとき麗音がまだいたら声かけようか?」
「いいよ勝手に帰って」
 パソコンの画面を見ながらそう言ったが、やはりなんだか疲れたような顔してる。
 遊びが過ぎるからよ……なんて心の中で非難しながら突っ立っていると、何時までもしつこく私が立ち去らないのに気付いた麗音は、漸く顰めた顔を上げてこちらを向いた。
「何?」
「夕ご飯どうするの?」
「いいから、早く行けよ」
「デリに電話かけてあげようか?」
「オレは今日中にこれが終わらないと帰れないんだ。邪魔すんな」
「折角ひとが心配してあげてるのに可愛くないの」
 そして、滑らかにキーボードを連打する指先が綺麗だなと思っていると、麗音は伏せていた目を再び上げて、イライラしたように私を睨んだ。
「てめぇ嫌がらせか? どこに行くんだよ言ってみな、後から嫌がらせに行ってやるから!」
「言うか!」
 ――てか、どこに行くか知らないんだけど……。
 まあ、これ以上麗音を刺激すると彼の我慢の範疇を超えそうなのでそろそろ退散するか……、そう思いながらドアを閉めようとすると……。
「萌花」
 声に振り向くも、呼んでおきながら目線はパソコンに落としたままだ。
「なに?」


「楽しんで来い」


 ――え?


 一瞬だけ麗音は顔をあげて真面目な目線を寄越してそう言うと、再び視線は落ちた。
「……うん」
 既にパソコンの画面を見ている麗音に向けて軽く返事をすると、そっとドアを閉めて部屋を出てきた。
 何よ急に……、調子狂うなぁ。
 本心だよね……、真面目な顔して普通のことを言われると、相手が相手だけに裏読みして疑ってしまう……。
 でも、女心って単純だなとつくづく思う……、それより麗音が一枚上手なのか……、どっちにしろ私の心はほんのり温かくなっていたのだから……。




 ビルの玄関で待っていると、程なくタクシーで迎えに来てくれた翔さんは、わざわざ車から降りてくるとにこやかに微笑んだ。
「待たせたね、ごめん」
「いいえ、今降りてきたところです」
「じゃあ、行こうか」
「翔さんがタクシーだなんて少し意外でした」
 私は車内に落ち着くと、隣に乗り込んできた翔さんに向かって言う。
「え? どうして?」
「だって麗音でさえ運転手探してたくらいだから、きっと翔さんは運転手付きの車で来るのかと思ってました」
「麗音は忙しいからね、学校と職場との行き来が大変だから。僕は会社ではまだ一平卒に過ぎないからね、まあ、社用のときは車を使わせては貰ってるんだけど」
「謙遜して」
 私たちは笑った。
 昔のように穏やかに優しく笑う翔さんは、少しばかり大人の男性になっていて、そのほかは麗音の言うとおり、ちっとも変わってないように思えた。
 麗音と八つも年が離れているように見えないし、育ちの良さそうな上品な顔立ちは彼ら兄弟特有ではあったが、翔さんは一重に近い二重で目元がきりりとした涼しげな顔をしている。
 短めの黒い髪の毛はスタイリッシュだが、上司にも嫌見なく受け入れられる範疇だ。
 まあ、その血筋から彼をとやかく言う人は社内にいないだろうが、どっちにしろ翔さんは有能そうであの都さんが褒めるように完璧に思えた。
 そして麗音が唯一認める人物……。
 私は、昔、彼をどんなに憧れたか今更ながら思い出した。




 翔さんに案内されて入った店はラウンジと、レストランが左右に別れて作られていたが、アペリティフはテーブルで頂くことにした私たちは早速席に通された。
 まだ時間は早かったが、私たちと同じような会社帰りのスーツを着たカップルや、年配の夫婦と言ったバラエティに飛んだ人々が、ちらほらと席を埋めていた。
 店内はシンプルでいて白とこげ茶で統一された、落ち着いた店構えのイタリアンレストランだった。
 食前酒にはまず翔さんがスパークリングワインを、私はカシスネクターを選んだ。
「少しカジュアル過ぎたかな?」
 メニューを見ながら翔さんが微笑んだ。
「え? どうしてですか? 全然、お洒落じゃないですか」
「だってこういう店はいつでも来れるだろう? ちゃんとしたフレンチレストランの方が良かったかな?」
「何言ってるんですか、翔さんは近年の私の貧窮ぶりを知らないからそんなこと言ってるんですね。こういうレストランに来るのもほんとうに久しぶりなのに」
 その時、翔さんの顔が僅かに曇った。
「ごめんね萌花、僕はつい最近麗音に聞くまで全く知らなかったよ。それもお爺さんと麗音が話込んでいるのを聞いて、君が苦労していたのを初めて知ったんだ」
「何も翔さんが謝ることは無いですよ。これは私の問題ですから」
「萌花、君は僕にとって妹みたいな存在だったんだよ。その妹がこんなに苦労してたなんて、僕は本当に申し訳なくて……」
「だから食事に誘ってくださったんですか?」
 私はクスリと笑ったが、翔さんは真面目な顔して私を見て言った。
「僕に何かできることがあれば何でも協力するけど、今日食事に誘ったのは単に君と話がしたかったんだ。本当に久しぶりだし」
 私は麗音に言われた通り、翔さんが裏表の無い人だと直感していた。
 お金持ちの家に生まれたというプライドも高慢さも、この人はどこかに隠していて目の前にいる翔さんは、普通の三十歳の男の人そのままの穏やかな笑みを称えている。
 見かけの麗しさは同じでももろ日本男子な翔さんと、日本ではハーフと思われるが外国に行くと白人でも無く、かといってアジアンでもない異邦人的な麗音とは、まったく似てない容姿と、相反する性格はどちらも極端に違いすぎる。
「麻里奈(まりな)や空遥(そなた)は元気かい?」
「ええ、お陰さまで」
「二人ともパリにいるんだってね」
「はい。麻里奈は大学出てから向こうに行ったっきりでもう六年になりますし、空遥は姉が居たから向こうの大学を選んだみたいなもので、二人は向こうでアパルトマンを借りて一緒に住んでいます」
「確か空遥はまだ大学生だよね?」
 私は翔さんに心配掛けたくなかったので、姉のお陰で叔父と交渉して屋敷や保険金を差し出す代わりに、空遥の大学と生活資金分は貰ったことや、今はアルバイトして生活費を稼いでること、そして麻里奈が現地でもそこそこの高給取りだと説明して、彼を安心させることに務めた。
 実際、空遥はカメラマンの助手をしていて、何を見初められたか雑誌のモデルを時々頼まれるようで、生活にはまったく困ってないようだし、麻里奈には教授の恋人がいて楽しくやっているようで、姉弟二人で借りているアパルトマンには滅多に帰って来ないと、前に空遥が話していた。
「じゃあ、萌花は日本でひとりだったんだ。みんなパリにいるのなら寂しいね」
「ええ。でも実際私が働きだして直ぐに父が倒れたり、保証人になった友人に逃げられるわで、寂しいどころではなかったのも事実なんです。とにかく働かないといけない状況でしたから……」
 その時、翔さんにお任せして注文した前菜がテーブルに並べられた。
 カジュアルレストランと言っても、ちゃんとしたコース料理であり前菜から真鯛のマリネと生ハムとメロンの組み合わせだったりして、店内と比例して少しだけ高級感が漂う。
「その友人とは連絡が取れないのかい?」
「ええ、まったく……」
「僕が興信所で探してもらおうか?」
「いいえ……。これでも彼女と私は仲が良かったんですよ。だから未だに信じられなくて……と言うより、彼女もきっと悩んだ末の失踪だと思ってるんです。それに、これもひとつ勉強になりましたし、今どん底だからこそ、これ以上悪いことは起こらないと思ってるんです。後は上にあがるだけですから」
 そう言って私が笑うと、翔さんもにっこり微笑んだ。
「相変わらずだな。萌花は昔から明るく前向きだし、度胸も据わってるよ」
「それ、褒めてくれてるんですよね?」
「勿論だよ。麗音にしろ君にしろ羨ましいくらい本当に逞しいよ」
 そう言って翔さんは満足そうに微笑んでいる。
 翔さんにとっても麗音はかけがいのない可愛い弟なのだ。
「そう言えば麗音が翔さんのことを褒めてましたよ」
「あいつが? 珍しいな」
「翔さんは”裏表が無くいい奴だよ”って、そして翔さんのこと好きだとも言ってました。私は麗音が人を褒めるの初めて聞きました」
 私と翔さんは微笑んだ。
「僕もね麗音こそ本当によく頑張ってると思うよ。アメリカで事業を起こしたと思ったら、今度は日本に帰ってきて起業するなんて挑戦者だよねあいつは。しかも大学に編入して経済学の勉強もするなんてさ、知らない間にどんどん一人前の大人になっちゃって、あいつの努力は半端じゃないと思うし感心してるんだよ。普段はお互い忙しくてなかなか会えないのが残念だけど」
「確かに麗音は子供の頃からパソコンに関してはほんと秀でてましたよね。あのまま育ったらハッカーになるんじゃないかと思ってました」
「うん。萌花は知らないだろうけど、実は捕まる寸前までいったことがあったんだよ。中学の二年の頃だったろうか……、政府の極秘文書をハッカーしかけて祖父が裏で手を回してなんとか治めたことがあったんだ。これは桐生家の極秘機密なんだけどね」
 翔さんはクスリと笑った。
「あ……、ごめんなさい。それ麗音から聞いて知ってました私」
「そうなの?」
「ええ」
 子供の頃からパソコンに関して抜群に詳しかった麗音は、大人顔負けの頭脳でまるで玩具のように遊んでいた。
 かと言って”オタク”でも無く、スポーツもするし映画や読書も好きなオールマイティーな少年だったので、その容姿も相まって女子にとても人気があった。
 ただ私は麗音の口が悪いのと、自分に諂う人物を軽蔑する、或いは見下すような高慢さも持ち合わせていることを知っていたので、度々注意をしたのだがそれは今に至っても直ってなさそうだった。
「まったくあれほど誰にも喋るなと注意されたのにね……、まあ、君たちは仲が良かったから仕方ないか。あの時の麗音は父と祖父にこっ酷く叱られて、事件のことは黙っていることと、成績が学年十位以内に入ったらパソコンを没収するのは止めると言われて、麗音は一生懸命勉強してどうにかそれを免れたんだよ」
「麗音が喋った釈明をしてあげると、私はそんな事になってるなんて全く知らず、彼が一生懸命勉強してるところに、映画を見に行こうだのテニスしようだの散々遊びごとに誘ったんんだけど、どれも断るんで怒ったんですよ。”私と遊んでくれないのならもう口利いてあげない”って、子供でしょう? そしたら猛勉強してる理由を渋々話してくれたってわけなんです」
「麗音も君には形無しだな」
「あの頃の私も我儘で恥ずかしい限りですから、お互いさまでしょうか」
 そう……今思えば、その頃の私たちはまだ”許婚”という肩書きを背負てはいたが、元々仲は良かったのでお互い意識とかしてなかった。
 寧ろ大人になったらお互いに好きな人が出来て、自然に解消されるんだと思っていた。
少なくとも私は……。
「君らは何て言うか……僕は二人がお似合いだと思ったよ。喧嘩もするけどその分とても仲が良くてさ、やはり祖父の目は確かだと思ったものだけど、急に麗音がアメリカに留学すると言い出したかと思ったら婚約まで解消しちゃって驚いたよ、それで祖父ががっかりしてたのを覚えている」
 翔さんは懐かしい昔を振り返るかのような目をして、やんわりと微笑を湛えていた。
 当時はどうして私の許婚が五歳上の翔さんではなくて、三つ年下の麗音なのだろうかと思ったものだが、学生の頃に例えたら小学一年生と六年生、中学一年生と高校三年生……学生時分の年齢差は恐ろしく隔たっており、私がいくら翔さんに恋心を抱いたとしても、彼がシスコンとかではなく全うな青年である限り、恋愛対象になるには至極無理な話であった。
 老練な二人の祖父が考えたことだから、何らかの思惑があったのだろうが、私の祖父が他界した今となっては、桐生のお爺さまに改まって聞くこともできずにいる。

 
 二種のパスタを食べ終えて、私の苦手なヴィンコットソースを回避して翔さんが注文してくれた、メインの黒毛和牛フィレ肉の備長炭焼きがテーブルに並べられた頃には、楽しみなドルチェが食べられるだろうかと、本気で悩まなくてはいけないほどにお腹は満腹に近かった。
 どこがカジュアルなのだろうと疑う程に、次々と出される料理はどれもこれも美味しくて、よく考えたらこの店のシェフは、各国の有名店を渡り歩いたという、昔マスコミにも取り上げられていた人物だったのを遅まきながら思い出した。
 夜が深くなるにつれカップルが多くなり、テーブルのキャンドルが煌いてロマンティックムードを醸し出す。
 何時しか店内は客でいっぱいになっていた。
「でも、丁度、麗音が帰ってきていて良かったね。あいつも萌花のことは気になっていたんだね」
 翔さんは微笑んだ。
「……と言うか、私がマンション追い出されて途方に暮れていたので、流石に見過ごせなかったんじゃないかなぁ……、聖駕にも言われたみたいだし」
「ああ、聖駕か。何故だか昔から麗音は聖駕に弱いからな、あいつは兄弟のようなものだしね」
 そう聖駕は言わば桐生家の末っ子みたいなものだ。
 聖駕の母は彼が幼い頃に離婚してから自分が引き取ったものの、仕事が忙しくて聖駕は母の実家に殆ど預けられていて、麗音たちと一緒に育ったと言ってもいい。
 聖駕の父親は外資系会社の社長で、離婚した後もまだ聖駕の母親に未練たらたらの人物で、何だかんだと家族で会う機会を模索している涙ぐましい人だった。
 まあ、離婚の原因を作ったのも彼の浮気が原因で、自業自得なのだが……。
 そして未だ後妻は娶らず跡取りは聖駕だけだったので、今のマンションも生活費も全て父親からの資金で賄われており、多分これから先もその資産は聖駕に渡るものだと思われる。
 よって優雅な身分の聖駕くんなのだ……。
「萌花は聖駕と仲がいいの?」
「はい。麗音が留学するまでは麗音と仲が良かったけど、アメリカに行ってしまってからは聖駕と一番の仲良しです。今でもとても助けられてるんですよ」
「僕は君らが仲良くて羨ましいよ。君が窮地に陥っても何も知らなかったんだから……、まあ僕の心配は無用かな」
 翔さんは少しだけ寂しそうに苦笑いした。
「無用だなんて、私は気に掛けてもらっただけで凄く嬉しいんですよ。だって、翔さんはとても忙しい方だから」
「でも君の心配はできるから、何か僕にできることがあればいつでも相談にのるからね」
「ありがとうございます」
 落ち着いた翔さんの声は私の心を暖かくしてくれる。
 麗音の言うとおり、以前とちっとも変わらぬ穏やかさで微笑まれると、私は女子高生の頃に戻ったようにドキドキした。
 なんと言っても翔さんは私の初恋の相手だ。
 面と向かい合って、ときめかない筈が無い……。


「また僕と食事をしてくれるかい? 萌花」
 

え?


そのとき、麗音の言葉が頭を駆け巡った……。


 ”あいつけっこう本気かもな、萌花”




                   
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