Citron  シトロン
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 「弥子さーん!弥子さん、何処にいるの?」
大声をあげながら厨房に入って行くと、エプロンで手を拭きながら振り向いた弥子さんが私の顔を見るなり吹き出した。
「な、なんですか?どうしたんです?」
笑いを一生懸命こらえているのは分かるが、手を叩いて喜ぶのはどうだろう。
その騒ぎに、みんなやって来てしまった。
「お嬢様!どうしたんですか!!!?」
二階担当の家政婦静子さんと、一階担当の智恵さん、そして兼さんまでもが私の顔を見るなり吹き出した。
「あのバカにやられたの、なんとかして?」
「バカって?瑠音様ですか?」
みんなクスクス笑っている。
「油性マジックですか?そうねぇ、レモンの皮か・・・、オイルがいいかしら、まあ、そこに座って下さいな、今持って来ます」
「午前中は仲良く東屋でお話していたでしょう?」
兼さんが近寄ってきて、薔薇の花が入ったバケツをを床に置きながら笑って言った。
「うわっ綺麗!」
「持って行きますか?温室で栽培している薔薇です、真紀子様が好きなものでね、書斎に活けてきた残りだけど」
「いいの?」
「勿論」
「きゃぁ嬉しい!ありがとう」
と言って抱きつくと、兼さんは少し驚いていた。
「嬢ちゃま、ここは日本ですよ、爺は若い娘に抱きつかれると心臓が止まってしまいます、そんなに喜んで貰えるのなら、薔薇はこれからもずっと咲きますから持ってきてあげますよ、でも抱きつくのだけは止めてくださいね」
そう言って兼さんはウインクをした。
いけない、いけない、ここは日本だ。
静子さんと智恵さんも笑っている。
「さ、じっとしていて下さい、拭いてあげますから」
弥子さんは、まだ笑いをこらえている。
「あなたが来られてから、瑠音様は楽しそうですよ」
「ひとりで退屈していたんじゃないの?」
「まあ、ご家族がアメリカに旅立ってからは寂しそうでしたからね」
「どうして瑠音は一緒に行かなかったの?」
「いろいろありましてね、」
「弥子、」
兼さんの注意に顔を上げると、戸口に瑠音が立っていた。
「由妃、もう一つ忠告しておくよ、余計な詮索は命取りになるよ、」
瑠音は静かにそう言って、私を強引に椅子からどかして、自分の頬のマジックを先に除けるよう弥子さんに催促した。
「みんなも、お喋りは程ほどにしないと」
澄ました顔して、瑠音は大人達を黙らせた。
「命取りだなんて、大袈裟ね」
私は瑠音の後ろで腕を組んで彼を見下ろしていた。
「そうでも無いよ」
「どうして?」
「だって、一度、僕は弟を殺し損ねたからね」
瑠音は振り向くと、平然とした顔で私を見ていた。
その言葉に、厨房の誰もが息を呑むのが分かった。




「ーって、言ったの。それから厨房のみんなは貝のように口を閉じちゃって、私は邪魔だと言って、そそくさ追い出されちゃったの。それについて何か聞いた事ない?」
私とサクラはランチを済ませて、ジュースを片手に教室に戻って来ていた。
まだ、みんなカフェテリアから戻ってきていない。
ガラガラの室内は閑散としている。
「そうね、確か去年の話しよね、弟を車で撥ねたと言う噂はあったわね、でもそれが真実かどうか分からないし、下手に噂を流して瑠音の餌食になるのが怖いから、みんなそれについては口を閉じたの、秘書の新堂さんに聞いてみたら?仲良いんでしょう?」
「そうねぇ・・・教えてくれるかなぁ・・・、屋敷で会ってもじっくり話す時間も無いのよね、殆ど真紀子さんと一緒だし」
「秘書だものね」
「でも、別にいいわ、どうせ脅かしているんでしょうよ」
廊下が賑やかになってきた。
「そうだ、体操服まだ届かないでしょう?私ので良かったら使って、ふたつあるから」
「え?いいの?」
サクラは鞄の中から小分けした袋を取り出した。
「へぇ、勇気あるじゃん、サクラ、オレらを敵に回すつもりか?」
その時、不意に現われた双子のコウがそれを取り上げた。
「返しなさいよ、子供じみた真似はよして」
私はコウを睨んだ。
「おお怖っ、取り返してみろよ」
頭上高く手を伸ばされて、背の高いコウに届く筈がない。
やがてコウは体操服を持って外に駆け出した。
止めるサクラの声を振り切って、その後を追う理由はサクラの勇気が嬉しかったからで、その体操服をどうしても取り返したかった。
しかし、コウは弟のシンと共にバスケのように代る代る投げ合いながら、プールサイドへとやって来た。
もう、その時点で嫌な予感は、100%の確率で当たろうとしていた。
コウはその飛び込み代の上に立ち、今にも落とそうと体操服を持った手を伸ばしている。
校舎からは何事だろうと、ざわめき立つ生徒が窓際で見物している。
勿論、二階の教室からは瑠音と亜里沙が嘲るように笑っているのが見えた。
窓と言う窓には大勢の見物人がいて、最早、双子の行動をはやしたてる以外、どんな見せ物にも満足しない観客に、胸が悪くなるような光景だった。
全校生徒対私。
そして、私は、恰好の獲物だ。
「返して」
「さあ、どうするかな?」
コウは輝く水面を覗き込んでいる。
プールは最近洗ったのだろうか、以外にも澄んでいて底が綺麗に見渡せた。
今の状況下でなければ、眩しい光の中泳ぎたくなるような夏の日を思い起こさせる。
「そうだなぁ・・・跪いて懇願すれば、考えてやってもいいぞ」
「どうして私が、あんたに跪かないといけないの?」
シンは笑ったが、コウは怒って私を睨んでいる。
「そっかぁ・・・、欲しくないんだなこれが?」
そう言って、体操着の入った袋をこれ見よがしにぐるぐる回したかと思うと、私が見ている側でプールの中へ放り込んだ。
歓声が上がる。
私がどうしようかと思案してる間に、双子に腕を捕まれた。
「取りに行って来いよ、」
私はそう言われるなり、双子によってプールの中へ突き落とされた。
最悪・・・。
耳元で泡が弾ける音や、校舎から聞こえてくる笑い声が深いプールの底までも届いてきた。
10秒、20秒・・・・悔しいから暫く底に沈んでいようかと思った。
30秒・・・、何となく辺りがざわめいているのが聞こえた。
私が浮かび上がらないので、そろそろ慌てている頃だろう・・・。
40秒、50秒・・・、こうなれば意地だった。
誰か助けに来なさいよ!
誰かが来るまで絶対に上がらないと決心した。
幸い泳ぎは得意だし、息の長さにも自信があった。
その時、ザブンと音がして誰かが飛び込んで来た。
私は意識の無い振りをして、俯いたまま笑いをかみしめていた。
薄目を開けるとそれはどうやら私を落とした張本人、コウとシンらしかった。
両脇を抱えられ、プールサイドに引き上げられる。
「やべっ・・・」
声の主はどうやらコウで、流石に焦っているらしく小声で呟いた。
私は可笑しくてしょうがなかった。
気を失った者が、しっかり体操着を掴んでいるか?普通?
でも、そんな事には気が付かぬ観客は、さっきまでの歓声が今や嘘のように静まり返って、固唾を呑んで見守っている・・・。
「先生を・・・救急車を呼んでくれ、」
コウが悲痛な声で叫んでいる。
少しばかり気の毒になった私は、そろそろ茶番を終わらそうと、いきなり目を開けた。
コウがぎょっとしたように、仰け反って身を震わせた。
そして、私は彼らを尻目に立ち上がる。
回りから感嘆とも取れる、怒濤の歓声が上がった。
滴り落ちるスカートの水滴を搾りながら、私は笑って言った。
「いつ助けにくるかと思っていたわ、」
コウとシンは驚いて、ヘナヘナとその場に座り込み、呆然と私を見ていた。
ふと窓際を見ると、亜里沙は苦々しい目で私を見ていたが、瑠音は笑って私に指で敬礼をした。
どこまでも、ムカツク奴だわ。

 私がサクラの体操服を掴むと、双子を尻目に笑いながらその場を後にしようとした時、
目の前に背の高い、すっきりした出で立ちの、始めて見る男の子が現われた。
そして、二階の窓を向けて叫んだ。
「瑠音ー、降りて来るんだ!!」
その場を離れようとしていた瑠音が、再び窓際に近寄って来たかと思うと、彼を見て少し戸惑ったような顔をした。
「悪かったね、これを」
彼は私に微笑んで、タオルを渡してくれると、毛布を優しく肩に掛けてくれた。
誰?
敵?味方?
意外な展開に私は戸惑った。



 
                        
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