Citron  シトロン
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3


 時計を見ると午前五時、外はまだ薄暗かった。
しかし、私の頭はくっきりはっきり冴えていた。
全くの時差ボケだ。
もう眠れる気配は無かったし、喉も渇いていていて、ベッドから起き上がると上着を羽織って階下に降りて行った。
 既に一階は明かりが煌々と灯っていたし、キッチンの辺りから賑やかな話し声が聞こえていた。
ダイニングを抜けて、厨房に顔を出すと、一条家の使用人達が食事を取っていた所だった。
私を見付けると、みんな驚いたように食べる手を止めた。
「あらあら、気が付きませんで申し訳ありません、何かご用ですか?」
主に真紀子さんのお世話係の年配の家政婦が尋ねた。
他テーブルを挟んで、六十過ぎ位の男女と、二階担当の五十前後の家政婦二人が慌てて立ち上がる。
「お食事中、申し訳ありません、喉が渇いたものだから……、何か飲み物貰えませんか?」
「お部屋から連絡下さればお持ちしましたのに、」
二階担当の家政婦が言った。
「とんでもないです、私はここの居候ですから……甘やかさないで下さい」
私は笑った。
家政婦もにこりと笑って、何がいいかと尋ねたので、私はオレンジジュースをお願いした。
「お部屋にお持ちします?」
「いえここで……、このーテーブルに座っていいですか?」
私がそう言うと、一同は顔を見合わせて驚いていた。
「え……でも、お嬢様はこちらでは……」
「あ、迷惑ですよね、食事中ですものね、ごめんなさい」
「いえ、そう言う意味じゃ無いんです、お嬢様がお嫌じゃないかと思って、だってここは使用人のテーブルですよ」
「ダイニングは広くて寂しいわ、ここだとみんなと一緒で楽しいでしょ?ついでにここで食事もしようかな?いいですか?」
みんなは目を丸くして私を見た。
そんなに珍しい事なのかな?
「嬢様は変わってますね、」
白い髭を顎に蓄えた男性が、そう言いながら微笑んでオレンジジュースを持ってきてくれた。
「私はこの家全般の修理とか、庭の手入れとか総てを請け負っている高橋兼です。こっちは私の妻で料理担当の弥子《やすこ》です、宜しくお願いします」
「こちらこそです。森下由妃です」
「丈二様のお孫さんでしょ?確か、二十年ほど前にこちらのお屋敷で過ごされていましたよね?」
「ええ、確かその時は母も一緒だったと思うんですけど?」
「そうそう、利発そうなとてもお綺麗な方でしたね、あの方があなたのお母様なんですね」
ふたりは過ぎ去りし年月を、感慨深そうに思い起こして頷いている。
凡そ二十年前に、私と同じようにこの屋敷に足を踏み入れた母は、初めての日本をどう思ったのだろう、見る物食べる物総てが珍しかったに違いない。
私はそこで暫くみんなと談笑しながら朝食を取り、通学の時間が迫って来たので部屋へ身支度をしに戻った。
すると、部屋のノブに手を掛けていた流音がいた。
「鍵かけてる……」
「毎日、その手は食わないわよ、」
私は瑠音に声を掛けた。
そして、首にぶら下げたチェーンの先の鍵を、瑠音の鼻先に翳して見せた。
「学習能力あるじゃん、」
「どいて」
扉の前から退こうとしない、流音に文句を言った。
すると、彼は右手をドアに突いて、通せんぼして言った。
「車が出るのは八時だから……」
「私、メトロで通学するから」
「どうして?」
「運転手付きの通学なんて、私には贅沢過ぎるし、そう言う風に時間に急かされるの嫌なの」
悪戯な瑠音の眉毛が上がる。
相変わらず綺麗な顔しているなぁ……と、私は密かに感心していた。
「君は僕と仲良くする気あるの?」
「仲良く?」
尋ねると、瑠音は笑いながら、更に綺麗な顔を近づけて来た。
「そう、お婆さまは望んでいるよ」
長い睫が女の子みたく上向きに、くるんとカールしていて、顔にはホクロは疎か、シミ一つ無い透き通るように透明な肌をしていた。
そして、なぜか瑠音から、フローラル・ムスキーのオードトワレの匂いがした。
「瑠音、亜里沙と同じ香りがする」
一瞬の瞳の硬直の後、瑠音は怯まずに話を続けた。
「一緒に寝たからね」
悪びれず、平然とそう言う。
そして、どう解釈したものか、こっちが戸惑わされる。
「どいてくれる?」
瑠音はにやりと微笑んで手をどけたが、壁に凭れて私が鍵を開けるのをじっと見ていた。
「由妃、僕には逆らわない方がいいと思うけどな?」
「なぜ?」
「君はまだ自分がどういう環境に飛び込んで来たか、分かっていないんだよ。いいね、忠告したよ。」
鷹揚に流音は私を見ていた。
その瞳はナイフのように鋭かった。


 メトロに乗って、二駅目でサクラが乗って来た。
「おはようサクラ」
「おはよう、本当にメトロで通学するんだ?」
サクラは驚いて私を見た。
そうこうする内に、三つ目の駅で、イアホンをした同じクラスの男の子が乗り込んで来た。
「おはよう拓人、」
サクラは手を振って合図したが、男の子は頷いただけだった。
「田中拓人よ、私達幼なじみなの、ぶっきらぼうで愛想ないけど、悪い奴じゃないから、」
眠そうに手摺りに凭れて目を閉じている。確かに、教室でもひとり静かにゲームをしているか、寝てるかどっちかだ。
「彼の家はボクシングジムを経営していてね、彼も子供の頃から習ってるから誰も彼に喧嘩は売らないわ、瑠音達でさえ一目置いているくらいだから……」
決して体格の良い身体とは言い難く、身長も普通で身幅も無い今時の男の子だったが、ボクサーが太っているのは確かに見たこと無い。
「そうだ、携帯どうなった?」
「それがね、見てよこれ……」
そう言って、私は瑠音の待ち受けの携帯を見せた。
「瑠音のファンは泣いて喜ぶでしょうに、」
サクラは笑って言った。
「真紀子さんが用意してくれていた携帯を弄くり回って、メールアドレスまで勝手に取得してるのあいつ、何だと思う?rune666@〜だって不吉なアドレスよね」
「でも覚えやすいよね、”瑠音悪魔”って意味じゃない?それって面白いよ、ぴったりじゃない。そのままにしとけば?」
そう言えばそうだ。
覚えやすいに違いない。
気がつくと、ちらほら同じ制服の学生が増えて来た。
「結構、メトロで通学しているんだ?みんな運転手付かと思ってたけど」
「まさか、まあ確かにお金持ちの子供は多いんだけど、みんながみんなそういう環境には無いってこと、アメリカと違って日本は治安が良いからね」
時折、メトロは奇声をあげて車体を緩やかに傾けた。
清清しい朝もやに覆われた地上に出たかと思うと、一瞬にして地下に潜り込む。
そして、壁に埋め込まれた斬新な広告が、幽霊のように何処までも動いて着いてきた。

 改札を抜けて、石畳の街路樹が並ぶ校門へと歩いている途中で、瑠音と亜里沙が乗った黒塗りの車が私たちの横を通り過ぎて行った。
下級生らしき女の子数人が、それを見つけて騒ぎ喜んでいる。
まったく、奴はアイドルか?
「やることは残酷だけど、どうしてだか、あれで結構人気あるのよね」
サクラが言った。
「私今朝、忠告されちゃった。”僕には逆らわない方がいい”って」
「まあね……」
「何かあるの?」
「例えばさ、あの前を歩いている男の子、瑠音が”ターゲットはおまえだ”って言うじゃない?そしたらその日から、虐め、或いは、完全無視が全校規模で始まるの、瑠音の言葉は絶対なのよ」
その男の子は後ろから頭を叩かれ、持っていた鞄が手から落ちて、荷物が散乱した。
私は拾ってあげようと近寄ろうとしたら、サクラに腕を捕まれ止められた。
「やめなさい、そしたら次はあなたがターゲットになるわよ、」
サクラは真剣な顔をして私を見ていた。
男の子は荷物を拾おうとするが、邪魔されてなかなか拾えない。
私は余りの事に、サクラの忠告を無視して歩み出た。
拾ったノートを彼に差し出す。
「あ、ありがとう……」
彼が戸惑っているのは明らかだ。
車から降りて来たばかりの瑠音と、私の顔を交互に見ている。
よくあるSFドラマみたく、周りの動きが止まったように、みんなの視線も凍りついていた。
私が黙って瑠音の横を通り過ぎようとした時、彼は私を呼び止めた。
「由妃、言ったよね僕。」
「何を?逆らうなって忠告?あんたは専制君主?」
「そうだよ」
平然とそう言って、肩に手を回してくるのでその手を払うと、周りりから呻くような低い声が漏れた。
「彼女、まだ分かってないようね」
亜里沙が意地悪気にそう言って、瑠音の腕を取った。
「まあ、今日の所は大目に見てやろう、登校、二日目だからね。僕だって優しいところもあるんだから」
瑠音は亜里沙にとびきりの笑顔を向けながら、並んで中へ入って行った。
二人を見送る私の元に、あたふたとサクラがやって来た。
「ふ〜、どうなる事かと思ったわ、あなたったら冷や冷やさせるんだもの」
「周りの人が凍てついていたわね?」
「そうよ、普通の人なら絶対にあの時点で”第二ステージ”送りだわよ、」
「それ何?」
私は笑った。
「第一は、昨日言った女の子を落とすゲーム、第二は虐め、第三は無視、それが瑠音の一言で、全校規模で始まるの、どの標的に選ばれてもキツイわよ、私だってあなたがターゲットになると、話し掛けられるか自信が無いわ、次は自分が同じ立場になるんだと思うと、勇気も竦むわよね」
その王者に君臨するのが、瑠音なのだ……。





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