A blue cloud
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空に浮かぶ月
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 翌早朝、店を開く準備をしているのか、かすかな物音に目が覚めた私は、まだ暫く目覚めないであろう真昼を残してお店に向かった。
まだ時間は五時を回った所だったが、朝の準備が忙しいことをすっかり忘れていた。
空気を入れ換えるために開け放たれた窓から、香ばしいコーヒーの香りが漏れてきていた。
「おはよう」
「あら早いのね、まだ寝てたら良いのに」
祖母はサラダに使う野菜を切っていた。
朝食用の煮物のお鍋は美味しそうにぐつぐつと音をたてていたし、焼き魚は焼くだけの下準備はすっかり整っていた。
「手伝おうと思っていたんだけど・・・」
「年寄りはね、四時にはもう目が覚めるのよ。することないからやってるだけ、それに朝の下準備はもう何年もひとりでやっているのよ、でも、せっかくだからテーブルを拭いて貰おうかしら?」
私が布巾を手にした時、外から男の人の声がした。
「おはようございます」
元気良い声で勝手口に、配達の人が現れた。
その手には、ミルクやコーヒー豆、お肉といった仕込みの材料が入った籠を持っている。
そして、私の顔を見て驚いている。
「あれ?月ちゃん?帰ってたのかい?」
帽子の下からくるくる輝く瞳が覗いている、私が分からないだろうと思ってか帽子を脱いで微笑んだ。
良く見ると同級生の原浩二だった。
確か彼は大阪でコンピューターの仕事に就いていたはず。
「ええ、驚き!こっちの台詞よ、あなたこそ大阪で就職しているって聞いたけど?」
「親父が三月に倒れちゃってさ、気弱になったものだから跡を継いでくれって懇願されちゃったんだよ、で、こうやってお得意様を覚える為にも自分で配達しているんだ」
彼の父親は、地元で大きなスーパーを何軒か経営していて、昔から祖母は品物をそこから卸して貰っていた。
「そうなんだ?で、お父様良くなったの?」
「すっかり、ぴんぴんしてるよ。騙されたんじゃないかって時々思うほどにね」
そう言って彼は笑った。
「君は?」
「私も帰って来たところ、やっぱ田舎は良いわ。お店を手伝いながらゆっくりと就職先でも探すつもり」
「そりゃいいや、よろしくね。それはそうと、あのニュースで報道されてた家って、君ん家じゃないのかい?」
「そうなのよ」
昨夜、陽菜に話したとおりの事を説明し、ひとしきり世間話をかわしながら、彼は次の配達があるからと急いで帰って行った。
あと何人に同じ答えをしなくてはならないのだろうか・・・、浩二には悪いが少しだけうんざりする。




六時になって近所に住んでいる五十過ぎの菊野さんが手伝いにやって来ると、港町は少しずつ活気が出て来た。
モーニングにやって来る客が増え、店はてんてこ舞いで私も手伝わずにはいられなかった。
菊野さんは私が学生の時から店を手伝っていた時からの顔見知りで、二人してその忙しさには慣れているのだが、夏休みに入ると本当に忙しい。
海辺の喫茶店は、小さいながらも一時の涼を求める観光客や、地元の舌の肥えた客などで、一日中接客に追われるのだ。
幸い菊野さんの一番下の娘が、お昼の間はアルバイトに来てくれると言うので、私は少しだけ手が空き、真昼の要請もあって海水浴に行く事になった。
県外ナンバーでごった返す駐車場に車を止めると、お店で浮き輪と砂場遊びセットを購入していたら、コックさんらしい白の制服を着た女性に呼び止められた。
「なんだー、やっぱり月ちゃんじゃない!帰ってたの?」
再び同級生、二之宮麻美だった。
彼女とは生まれた時からの付き合いだと言っても過言ではない。
家も近所で、幼稚園から高校までずっと一緒だったから。
で、さっきの話をひとしきり説明するうちに真昼がぐずりだした。
「大変だったわね、で、このこは?」
私の息子で無い事を知っている麻美は、目を輝かせ興味津々で聞いてきた。
「かれんの息子、」
「驚き!かれんさんって結婚してたの?全然帰って来ないから知らなかったわ。でも可愛い!帰りに寄ってらっしゃいよ、ケーキとミルク用意しとくわ」
麻美はこの海水浴場の店舗で、スイーツのお店を出している。
店の一画にはテーブル席がもうけてあって、ゆっくりとコーヒーでも飲みながらくつろぐこともできるのだ。
地元の美味しいフルーツを使った無添加の食材、甘さ控えめの味が受けて、なかなかの人気店だ。
私と同じくまだ独身だったが、麻美は地元の新鮮で食材で美味しいスイーツをお客さんに食べて貰いたいと、日々、奮闘しながら夢を追って励んでいる。
みんなそれぞれの道を見つけて一生懸命働いていた。
何だか、麻美が眩しい。
私と言えば人生をリセットしたばかりで、今は何も残っていない。
あるとすれば、少しばかりの後悔と、天真爛漫な男を愛した記憶だけ・・・。
そして、積み上げてきた仕事のキャリアは、この田舎では何の役にも立ちそうに無かった。


それにしても、音信不通すぎる笑顔の小説家、橘敦はどうしているのだろう・・・。
空港での気恥ずかしい熱い抱擁の後で何の連絡もして来ないなんて、すっかり私のことなんて忘れたのかしら?
ま、連絡されても困るんだけど・・・。








 天空にぽっかり浮かんだ満月があった。
昼間、海ではしゃぎ疲れて眠る真昼の横顔を照らしていた。
時計は夜中の三時時過ぎで、何となく目が覚めたのは微かな物音がしたからである。


ギギッ・・・、


やはり聞こえる、東の玄関の方で。
その音は扉をこじ開けようとでもするかのように継続的に聞こえて来た。
私は携帯電話を手にすると音のする方へと近寄り、祖母では無いことの確認を取ろうとそっと窓際に近寄った。
暗闇に浮かぶシルエットは鮮明で無いにしても、男の人のがっしりとした体型だ。
すかさず110に電話を掛けて、近くの交番から警察官が来る数分の間、身を潜めようとした。
鍵が掛かっているので、外からはドアを蹴破らない限り進入できない。
でも、窓ガラスを割って入って来ることも考えられたので、側に置いてあったゴルフバッグの中からアイアンを一本取り出すと、玄関脇の廊下で息を殺してサイレンの音に耳を傾けた。


遅い!


待っている時間の、長くじれったいことと言ったら、一秒が十分にも感じられる。
今にも恐怖に心臓を鷲づかみされそうな気分になる。
ゴトッと鈍く大きな音がして、カタカタと扉を揺さぶっていた不審者は、あっと言う間にドアを開けてゆっくり中へ入って来た。
私は一気にクラブを振り上げ、侵入者目掛けて振り下ろした。
不意を突かれた男は、うめき声と共に頭を抱えて外に転げ出る。
その時になってようやくパトカーが急行し、蹲《うずくま》っている男の目の前で止った。
パトカーから二人の警察官が降りて来る。
「てめーっ、俺を殺すつもりか!」
そう言って男が頭から手を降ろした時、その指に血を見てぎょっとしたような顔をしたのも一瞬で、私を睨んで向き直った顔には見覚えがあった。
「ええ???叔父さんなの?」
叔父は警官が腕を取って、立ち上がらせようとした手を乱暴に振り払った。
見ると、こめかみの後ろから血が出ている。
命中したわけだ。
「お知り合いですか?」
警察官は真面目に聞いた。
この男が誰だか、彼はまだ把握していないらしい。


その時、見慣れたシルバーの四駆が駐車場で止った。
雨衣がバッチを見せると、警察官は道を空けて彼を通した。
「何があったんだ?」
怪訝そうに私を見ている。
少し疲れたような顔だが、相変わらずの男前で・・・、いや、この際それは関係ないが、何となく安心したのは気のせいだろうか・・・。
それに、まだ私服のままだ、起きていたのだろうか?
それとも慌てて着替えたのだろうかと、何故か私は関係ない事を考えていた。
で、我に返る・・・。
「・・・不法侵入の、指名手配犯を捕まえたところ」
「月てめぇ、誰が指名手配犯だ?不法侵入犯だと?自分の家に入ってどこが悪いんだよ」
「ここは祖母名義の家であなたの物ではないわ、それに今は私が住んでいる。それとも又こっそり印鑑盗んで、この家売り飛ばすつもりだったの?」
ぎくっとしたような顔を見ると、図星だったのだろう。
「い、言わせておけばこのクソアマ、お前が帰って来てるなんて知らなかったんだよ、ここで寝ようと思って帰って来たんだ何が悪い!」
私に飛びかからんと立ち上がろうとした所を、警察官に制止させられ名前を尋ねられた。
それでも、言おうとしない。
苛々した私が、ゴルフクラブをちょっと持ち替えただけで叔父はびくついて、警察官の後ろに隠れようとする。
こんな小心者に、殺人なんてできるのかしら・・・。
雨衣は叔父の名を警官に告げ傷の手当をしながら、彼が重要参考人であることは間違いないが、先に病院に連れて行くよう、てきぱきと指示を出していた。
へぇ、意外と頼もしいかも・・・。
いつかの傲慢な少年が、私の記憶から少しばかり影を顰める・・・。






叔父がパトカーで去った後、雨衣はドアの金具が壊れているのを指摘した。
横に落ちていたブロックで衝撃を与えて壊したらしい。
まだ眠り続ける真昼を抱いたまま、外に出てきた祖母は放心状態だった。
「もう離してもいいんじゃないか?」
雨衣にそう言われるまで、自分がゴルフクラブをたいそう大事に抱きかかえていることに気が付かなかった。
あ・・・、と手を見る。
「ああ、怖かった・・・」
「そうは見えないけどね」
珍しく雨衣がクスリと笑った。
「あのねぇ、泥棒に入られそうになって、怖くない女の子がいるもんですか?」
「女の子?」
今度は、感じ悪いことに鼻で笑った。
”女の子”に引っ掛かるなよと、心の中で憤慨する。
「貸して」
「何?」
「嫌でしょう?血の付いたままのクラブなんて、」
あ、そうか。
素直に渡すと、雨衣は消毒液のような物で綺麗にクラブを拭いてくれた。
「ありがとう。でも、これ没収しなくて良いの?」
「いいよ」
あっさりそう言うと、雨衣はケースの蓋を閉めると車に積み込んだ。
「また今日も鑑識の方から電話が掛かってきたの?」
「いや、上からパトカーが止るのが見えたんだ、サイレンだってうるさいしね、誰でも目が覚めるだろう」
そうか、ここからも雨衣の家が見えるってことは、上からも丸見えなのか・・・。
わざわざ来てくれたわけだ。
「あのこ大丈夫かしら、血が出ていたわね。」
祖母がため息を付いた。
「少し切れただけで大丈夫ですよ」
「家が近所なだけに、あなたには迷惑掛けどうしね」
「仕事ですから、それに花さんにはいつもお世話になっているし」
とんでもないと、言う風に手を振って祖母は中に入って行った。
「あ、そうだ!携帯どうした?弁償しなくちゃ」
どうしてだか、今頃急に思い出してしまった。
「とっくに買い換えたさ、毎日こんな風に呼び出されていて、連絡取れなかったら仕事にならないからね」
「ごめんなさい、本当に悪いと思っているわ、お金払うからいくらかかったのか教えて」
「いいよ、無職の人には貰えない」
「あ、今笑った?バカにしてるでしょう?でも、どうして無職だと分かったの?私を犯人だと思って調べたわけ?」」
「昨日、土屋刑事にそう答えていたでしょう?もう、忘れたの?」
「あ、そうか・・・」
私は急にトーンダウンする。
「でも、調べればあなたがいつ大学を卒業して、出版会社に就職して、つい一昨日まで不倫していたかなんて・・・」
「あーーー、やっぱり調べてる!何てヤツなの!」
「当然でしょ?第一発見者は一番怪しいんだ、」
でも、気に入らない。
どうして不倫していた事まで調べる必要があるの?
しかも、そんな情報がどこから?
「と、とにかく・・・」
気を取り直してもう一度、携帯を弁償する話をしようとしたら、あっさり遮られた。
「あ、それと、君の姉さん四年前の八月に兄と完全に別れているけど、その八ヶ月後に息子を生んでいる。あなたはかれんさんは結婚していたと言うけど、そんな事実は無い。」
あ・・・マズイ。
「内縁の夫よ、直ぐに別れたけれど・・・」
「おかしいな、彼女が出産した大学病院の友人に尋ねたけど、早産ではなく通常分娩で彼は生まれてきている」
「何が言いたいの?」
私の瞳と同じくらい冷たく、見透かしたような瞳が見返してきた。
「真昼は兄の子供じゃないのか?」
夜の深い森で冷やされた風が頬を撫でて行った。
医大を卒業して、さらに警察に勤めているとは・・・最早、この男の前では隠し通せぬものだと私は観念した。
「それ高士さんに言った?」
「いや」
冷静に、静かな声で雨衣は答えた。
彼に知られてしまっては、万事窮すだ・・・。
私は泣きの作戦に出た。
「かれんは、別れてから気が付いたの。打ちひしがれていた姉には、真昼が唯一の希望だったわ。姉は今更、高士さんとの復縁を望んだり、お金を要求したり、認知を求めたり絶対しないと誓うわ、ご家族の方や高士さんには黙っといてくれない?」
雨衣は暫く、私の顔を黙って見ていた。
「両親が知ったら黙っちゃいないだろうな」
「あなたには悪いけど、酷いご両親よ」
彼はそれには答えず、何か思案しているようだった。
その時、中から祖母がコーヒーを入れたので飲まないかと誘いがあった。
私達は揃って歩いていた。
白々と明けてくる水平線の向こうに、入道雲ができつつあった。
私は店内に入ろうとする雨衣の手を掴んで引き留めた。
「お願い、誰にも言わないで・・、それと祖母の前でも素知らぬ振りをしてくれるって」
「花さんは知っているのか?」
「知っているけど、それをあなたに知られたく無いと思っているのは確かよ、だってご両親に知られると、かなり面倒な事になるでしょう?」
どこまで彼が信じられるかは分からなかったが、今はとにかく是が非でも約束を取り付けたかった。
「そうだな・・・」
「お願い」
私は決然と言った。
「わかった」
真面目な顔して彼はそう言った。
そして、私は少しだけ安心した。
「本当よ」
「しつこい、」
「だって・・・、昔のあなたを知ってるから・・・、俄には信じられないもの・・・」
雨衣は溜息を吐いた。
「それを今言って、オレを怒らせたいの?あんた?」
「今は立派な鑑識官だし・・・」
「だから何?」
ぶっきらぼうに尋ねる。
「約束は破らないわよね?」
私が微笑んで言うと、雨衣は舌打ちして、私を睨んだ。
「離してくれよ、痛いじゃないか」
腕を掴んでいた手に、力が入り過ぎていたことに気が付いて離した。
「あなたが変わったことを祈るわ、昔のあなたは小悪魔だったから」
「小悪魔ねぇ・・・」
彼は昔を思いだすようにふっと笑った。




笑うと意外に可愛いかも、ちょっとだけ私の胸がざわめいた。















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