A blue cloud
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空に浮かぶ月
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18








ナイフを手にした人物は、……近藤啓太だった。


監視カメラの位置からは、帽子で彼の顔も手のナイフも、きっと把握できそうにない。
「楽しそうだな、野町陽菜」
「け、啓太さん!」
「次はお前だと分かっていただろう?」
静かな口調が彼の怒りを象徴してるかのようで、陽菜は真っ青になって震えていた。
「どうして……今になってこんなこと……」
私は勇気を出して彼に尋ねた。
「今だからさ、あのとき知っていたら、みんな半殺しだったさ」
「そんなに……」
「愛していたさ!だから急に別れてくれと言われて彼女を憎んだし、恨んだ、それがお前らの策略だったなんて!」
啓太は陽菜を睨んだまま、吐き捨てるように言った。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさいだと、レイプまでされたゆなの気持ちはお前にはわからないだろう」
「私はただ倉庫に閉じこめるだけって聞いていたの、知らなかったのよそんなことになっているなんて、後からまりこに聞いたときには、何て恐ろしいことだと……」
「うるせぇ!!!」
あっと言う間に近寄って来た近藤啓太が、陽菜の喉元にナイフを突き立てた。
陽菜は失神寸前で泣きじゃくっている。
「お願い止めて!その犯人は捕まったそうよ」
せめて事件の報告をするしか、私にはどうする事も出来なかった。
「そんなことで俺が止めるとでも?元々はこいつらのせいなんだぜ」
何を言っても無駄なようで、私は途方に暮れた。
そして近藤啓太が陽菜の後ろから、ナイフを喉元に回したまま停止ボタンを解除したので、再びエレベーターは八階へと上昇し始めた。
私達を……、陽菜をどうするつもりだろう……。
暑く小さく埃っぽい箱の中で息が苦しい……、のろのろと動いているように長く感じられたエレベーターの中だったが、かと言って、恐怖で麻痺した真っ白な頭にはどんな名案も浮かびはしなかった……。
「先に歩いて行って車のドアを開けるんだ。おかしなまねをすると妹の命は無いと思え」
エレベーターのドアがゆっくり開いた。
陽菜にナイフが突き立てられていると思うと、自分の事のように背筋が凍る。
私が彼の言う通り車に向かおうとした時、どこからか彼を呼ぶ鋭い声が掛かった。


「啓太!!!」


声の方を見やると、そこには原浩二が立っていた。
「もう、やめてくれ。お願いだから……」
浩二は頭を抱えて懇願した。
かって見たことの無いような悲痛な面持ちで、近藤啓太を見ていた。
「何言ってんだ浩二さん、ゆなの敵を取りたくないのか?」
信じられないとでも言うように、近藤啓太は頭を振って浩二を睨んだ。
「そんな事をしても、もう、ゆなは帰って来ないんだ……、もう止めてくれ……これ以上罪を重ねるな」
「今になって……、もう遅いよ浩二さん」
「まだ、遅くない、その娘を離すんだ」
「三ヶ月前にあんたが、ゆなの日記の事を話さなかったら、こんなことは……殺人なんてしなかった……今頃は結婚式の準備で幸せのまっ最中だったんだ……」
「俺はお前がレイプの犯人だと思ったんだ、だから問い詰めた……こんなことになって、まさかとは思っていたんだが……そうだ、俺が悪かった。許してくれ啓太……」
啓太も浩二も泣いていた。
神様は時として悪戯だ……。
啓太の気持ちや浩二の気持ち、みんなが原ゆなを愛していたと言う事実……、それが仇になった………。
切ない……。
「啓太、頼む、彼女を離してやってくれ……」
その時、気が付いた。
柱の影に数人の警察官がいることに、彼らは悟られないよう徐々に範囲を狭めて近づいていた。
そして、浩二の言葉に、近藤啓太が警戒を緩めた瞬間を見逃さなかった。
彼が油断した隙に近寄って来ていた刑事がナイフを振り払い、あっと言う間に近藤啓太を俯せに地面にねじ伏せ背中で手錠を嵌めた。
ガチャリと音がした……。
そんな一連の、刑事ドラマのような場面を私は呆然と立ち尽くして見ていた。
気付くと、そこには雨衣も居て、その場に崩れ落ちた陽菜の様子を見ている。
そして極度の緊張感から解放されて、放心状態の私の側に原浩二が近寄って来た。
「月、ごめんな……、こんな怖い目に合わせて本当にごめん……」
浩二は涙を潤ませ私に謝った。
「……あなたのお陰で助かったのよ、ありがとう」
「すまない……本当に……」
がっくりと肩を落とした姿が痛々しく、声を掛けて慰めようにも、何を言っていいのか言葉が見つからなかった……。
その後、浩二は警察官に事情聴取を求められ、パトカーへと歩いて行った。
彼もまた意地悪な娘達に運命を翻弄された哀れな犠牲者の一人だ……、事件が解決した事によりこれで前へ歩いて行けるだろうか……。
みんな幸せになって貰いたい。


陽菜は傍らの雨衣に気が付くと、彼に抱きついて泣きじゃくっている。
私だって泣きたいけれど、雨衣の胸は陽菜が独占状態だ……。
無邪気な陽菜が少し羨ましい……。
そんな風にぼんやり見ていたら、高橋守がにこにこと笑いながらやって来た。
「月さん、携帯の電源切っていたでしょう?先輩が何度も電話したんですよ、近藤啓太が見張りの警官を撒いて居なくなったんで心配していたんです」
「え?そうなの?」
「先輩、かなり怒ってましたよ、”あのバカ”って」
高橋守はクスクス笑っている。
そうだったんだ……。
私のミスだ、雨衣に目を合わせられない……、きっと酷く怒っているだろう……。
「陽菜さんにも電話したんですけど、何度鳴らしても出ないんですよ、マナーにでもしていたんですかね?」
もしかしたらと思い、車の後部座席を探してみたら、陽菜の携帯が落ちていた。
「こんなところに置いていたんですか?どうりで通じない筈ですね」
「でもどうして、ここだと分かったの?」
「携帯のGPS機能ですよ、今は文明の力がありますからね一発で検索できますよ」
「成る程、でも、どうして浩二までここに?」
「それはですね、話せば長い話しなんですけど、簡単に言いますと、妹さんが不慮の事故で亡くなられて、そろそろ一年が来るので遺品の整理をしようと、パソコンをどうしたものかと、一応開いて見たそうなんです。そしたら彼女の辛い過去の日記を見つけたらしいんです、そこに書かれていたレイプをした人物が近藤啓太だと原浩二は勝手に解釈をして、三ヶ月前に近藤啓太を呼び出し、ふたりは殴り合いの喧嘩をしています。これは目撃人物も大勢いました。その場では否定を続けた近藤啓太なんですが、その時、渡されたゆなさんの日記のデーターが入ったUSBメモリを見て近藤啓太は、陽菜さん、まりこさん、りかさんの名前を見て復讐を誓ったと言うわけだと今は踏んでおります」
「日記には近藤啓太だと書いてあったの?」
「いいえ、名前は書いて無かったんですよ、ただ、”今日、レイプされた。途轍もない恐怖と絶望が私を取り巻いている……まりこ、りか、陽菜を私は一生許さない”と、その日から彼女の日記はプツリと途切れてました。まあ、その辺りの動機に至る経緯などは、これからの取り調べで詳しい事が解ってくると思いますが……」
彼は手帳を見ながら説明してくれた。
「浩二は啓太と勘違いして問い正したのね、そしてそれが殺人へと近藤啓太を導いてしまった……」
「そうですね、結果的には……」
そうか……だから、今なんだと思うと納得はしたが、近藤啓太の気持ちも分からないでも無い……、そして、結婚を間近に控えて幸せ絶頂だった婚約者の、儚い笑顔を思い浮かべると気分が沈むのだった……。


悪い日は悪い方向にどんどん加速して行く、今日はとんだ一日で、今となっては体力気力すべてが悲鳴を上げていた。


暫く事情聴取を受けた後、私達は警察から解放され、陽菜もやっと落ち着いて、車の助手席に乗せる事が出来た。
そして、私が運転席に回り込んだとき、雨衣が側にやって来た。
当然の如く、目を細めて私を睨んでいる。
「どうして携帯を切ったんだ」
「どうして?あなたと話をしたくなかったからよ」
意外にも、雨衣はフッと笑った。
「お陰でこんな恐ろしい目に合ったわけだ」
「あなたの皮肉を聞いている気分じゃないの、どいて」
ドアを塞いでいる雨衣に寄るよう促したが、微動だしないままその目に怒りを宿してじっと私を見ている。
「どれだけ心配したと思っているんだ、ひとの気も知らないで」
「こんな事になっていたなんて知らなかったもの、だいたい朝の事で私はあなたに怒っているのに電話なんて出るはず無いじゃない」
雨衣は何時ものように、意地悪く眉尻を上げた。
「謝罪の電話だとでも思ってたのか?オレは下らない事で電話なんかしない」
「くだらないですって!」
「そうだよ、自分達の命と比べれば、総てはくだらない事だろう?」
「……」
私は黙った。
その通りで、言訳のしようが無い……。
「そうだろう?……」
泣きたいのを堪えていたのに、雨衣が急に優しい口調でそう尋ねながら顔を覗き込んで来たので、思わず涙がはらりと零れた。
「陽菜をこんな酷い目に合わせて、私だって後悔しているんだから」
「当然だ」
「何様よ……」
涙が止まらない……。
「あなたは何時も無謀で、ハラハラさせられる」
雨衣の手が伸びてきて、私の頬から涙を拭う。
「泣くなよ……」
静かにそう言うと、雨衣はそっと私を引き寄せ抱きしめた。
「私あなたに怒っているのよ」
「分かってる……、真昼の事は確かに無断で、ごめん。白黒させないと気が済まない性格なんだ許して欲しい……。それにあなたの事は信じているよ最初からね」
「嘘よ」
「本当さ」
雨衣は背が高いから、腕に抱きしめられると心地よかった。
「本当に心配したんだ……」
「ごめんなさい……」
どうしてこんなにも雨衣の胸は落ち着くのだろうか……、だけど、慣れ過ぎないうちに離れろと、頭の中で警告ベルが鳴る。
過去の過ちは繰り返したくない。
私はぎこちなく頭を上げると、雨衣の顔を見た。
そこには、どんな表情も浮かんではいなかったが、ただ漆黒の瞳には私が映っていた。
「ありがとう……、もう大丈夫よ……」
そう言って、彼の背中に回した腕を放すと、雨衣はゆっくりと腕を解いたが、車に両腕を付いて私を囲んだまま視線は逸らさなかった。
何を考えているのだろう……、長い睫の奥の瞳は海の底のように深く暗い。
その、深海を思わせる瞳が徐々に近づいて来る……。
「ねぇ、早く帰りましょ……」
車から降りてきた陽菜が、私達を見て言葉に詰まった。
私達は魔法が解けたように、一瞬で我に返り、雨衣は私から離れる。
震える手で運転席のドアを開けた。
そして、陽菜がドアを閉めたのを確認してエンジンを掛け、警察官の誘導に従い、そこに立ったままの雨衣を残してその場を後にした。


「さっき、キスしようとしてたでしょ」
暫くして、陽菜がぽつりとそう言った。
車は国道に出て、丁度、赤信号で止まった所だった。
そう……、雨衣は私にキスをしようとしていた……。
そして、私はそれを待っていた……。
「ねえ、そうでしょ?」
「わからない……」
陽菜は私を見ていた。
「月ちゃんは人の物に手を出す癖があるの?」
シラっとした目で私を見ている。
「どういう意味?」
「だって、敦さんには奥さんがいたし、雨衣さんには長年付き合っているエリカさんがいる」
「好きになるのって、奥さんが居ようが居まいが、関係無いでしょ?ただ、敦の場合はそこから一歩進んでしまった私が悪かったってこと……」
「じゃ、雨衣さんは?」
「彼とは、何も始まってないもの」
「嘘よ、さっきだって……」
「だから、始まって無いの」
確かに、私は拒まなかった。
だから動揺している。
私が雨衣に惹かれているのは事実かも知れないが、彼に彼女がいる限り、私達は友人のままであるだろう。
そうでなければならないのだ。
「でも、月ちゃんと居る時の雨衣さんは、喜怒哀楽が激しくて、いつもクールな彼が楽しそうに見える……」
静かにそう言って、不機嫌そうに陽菜は窓の外に顔を背けた。






翌朝の新聞には、一連の犯行が近藤啓太の仕業だったと、地元および全国ニュースでも放送された。
一概に喜べない今回の事件が一応の決着をついたことで、身辺の安全は確保されたが、何だかやるせなかった。


そんなある日、母から浴衣が四着届いた。


「かれんちゃんの分もだって、今年は花火大会には帰って来ないって言ったんだけど、いつか着てくれれば良いって、後は月ちゃんのと真昼の分、これ着て今晩の花火大会に行きましょ」
陽菜が実家から預かってきた浴衣を広げて嬉しそうに見ている。
ちゃんと下駄まで揃えてくれてある。
一度食事しただけで、長年の恨みが晴れたとでも思っているのだろうか?


あれから一週間が過ぎていた。


陽菜はまだ離れに居座っていたし、かれんからは真昼を引き取りに来る連絡もない。
私はと言うと、真昼を連れて海に通う毎日だった。
雨衣は相変わらず彼女と付き合っているし、私の思いは行き場所がないので、できるだけ彼に会わぬよう店にも出なかった。


陽もどっぷり暮れて、私達は浴衣に着替えて花火を見にビーチへと向かおうとしていたところに、高橋守が現れた。
「一緒に行きたいって聞かないのよ」
私の耳元で陽菜が迷惑そうに囁いた。
でも、目はきらきらしていてまんざらでもなさそうだった。
「いいじゃない、大勢の方が楽しくて」
「すみません、ご一緒していいですか?一度ここの花火見てみたかったんですよね、綺麗だって評判じゃないですか」
「花火が海に反射して綺麗なんですよ」
高橋守はにこにこして陽菜を見やっている。
「いや〜今日はおふたりとも綺麗ですね、評判の美人姉妹ですね」
「お世辞はいいの、行くわよ」
陽菜が照れながら先に立って歩き出す。
私は真昼の手を取りゆっくりと進む。
「人混みが多くなったら、僕が抱っこしてあげますよ」
以外と気が付くじゃん、高橋守。
「ありがとう、後でお願いね」
私達家族に、違和感なくとけ込んでいる高橋守が何となく微笑ましい。


「月さん!」
呼び止められて振り向くと、そこにエリカと雨衣が立っていて、こちらに向かって歩いてくる。
エリカは涼しげな白の浴衣がとても良く似合っていた。
久し振りに会った雨衣は一瞬目が合うも相変わらずの無表情で、何を考えているのやら読めない。
「あ、先輩、来られていたんですか?そう言えば、家近くでしたね」
「もう、護衛は必要無いと思ってたけど?」
「意地悪は止めてくださいよ」
高橋守は顔を赤くしながら抗議した。
「雨衣さんたちはどこで見るの?私達も一緒について行こうかな?」
「ここは人が多すぎるから向こうに行こうとしていたの、一緒に見ましょうよ」
とエリカが言う。
それに従い私達は彼らの後を着いて行く。
「月ちゃん、のどがかわいた」
と、真昼が訴える。
「じゃ、ジュース買ってくるね、オレンジジュースで良い?」
真昼はこくりと頷いた。
「じゃ、僕が抱っこしていますよ」
そう言いながら、高橋守は真昼を抱っこした。
人見知りしない真昼はにこにこして抱かれている。
「月ちゃん、私にも」
と、陽菜が言う。
「分かったわ」
そう告げて、買いに行こうと振り向いた瞬間、いきなり私の目の前にナイフが迫ってきた。


それは、あっと言う間に振り下ろされて、胸への衝撃と共に私は地面に崩れ落ちた……。


背中と指先に、堅いコンクリートの感触があった。


誰かの悲鳴……、甘く埃っぽい匂い……、近くで聞こえる人々の足音……。


そして……、血相を変えた雨衣が駆け寄って来た……、私は朦朧とする意識の中、賢明に処置を処そうとしている彼の苦痛に満ちた顔を見ていた……。




……私、死ぬのかな?
雨衣…………。




そしてその時、彼の背後で花火がシュルシュルシュルと音を立てて上がると、群青色した夜空に綺麗な大輪の花を咲かせた……。















 









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