A blue cloud
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空に浮かぶ月
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17






翌朝、店の掃除を終えて、祖母と飲むコーヒーを入れている時、浩二が丁度配達に来た。
「すみません、今日ちょっと遅くなりました」
「全然大丈夫よ、それよりあなた顔どうしたの?」
祖母が浩二の顔を覗き込んで言った。
見ると頬が紫色の痣になっていた。
「昨日も、商工会の連中と飲んで遅く帰ったら、親父が怒っちゃってさ殴られてしまったんだ、まだ、一連の犯人がまだ捕まってないのに、ふらふら飲み歩くなって、月達のおかげで、辛うじてこの前のアリバイがあったけど、最初の殺人事件に関しては夜中のことなので、両親に証言してもらってるけど、身内は証拠にならないらしくて」
祖母が彼にコーヒーでも飲んで行かないかと、テーブルを彼に勧めた。
「私は信じていますからね、お父様の後を継ぐためにわざわざ大阪から帰って来て、時期社長候補だってのに、こうして朝早くから下働きしている子が、そんな恐ろしい事が出来るはずがないわ、雨衣にもちゃんと言ってあるのよ」
「彼は疑って当然ですよ、仕事ですからね」
「あ、噂をすれば……」
店の入り口に現れた雨衣を一斉にみんなで見た。
「早いかな?」
みんなの視線に、意外にも戸惑っている雨衣はちょっと可愛い。
「あなたならいつでも歓迎よ、和食でいい?」
花さんが愛想良く言う。
ほんといつも彼を見る目は優しい。
「はい」
雨衣は浩二に会釈をして、彼のテーブルの横を通り抜けた。
そしていつもの席に着くとパソコンを取り出し、何やら難しげな顔をして画面に向き合っている。
「あの……」
浩二が雨衣に何か言いかけて辞めたが、彼は賺さず浩二に尋ねた。
「何か?」
「いえ、何でもないです……」
そう言うほどに、何でもなさそうでは無かったが、あえて雨衣は口には出さなかった。何かが引っかかったのか視線をずらした浩二を、刑事のような鋭い視線で暫く見ていた。
雨衣の方が年下なのに、浩二が敬語を使うのは何か変だったが、雨衣はそんなどこか取っつきにくい威厳さを醸し出していた。
私とて、事件の進展はかなり気にはなっていたが、昨日あんなに素直に謝られたばかりなので、攻撃には出られない。
その時、雨衣の携帯が鳴った。
電話を取ると、静かに返事を返していたが、ちらりと私達を見た。
何よ……。
そして、暫くして切った。
少しの沈黙の後、雨衣が顔を上げて私達の方を向き直すと静かに話しだした。
「原さん、妹さんをレイプした犯人が捕まったそうですよ……」
浩二が息を飲むのが聞こえた。
「婦女暴行を繰り返していた凶悪犯でした。陽菜が犯人の名前を覚えていたので、指名手配されていたんですが、半年前にも事件を起こしまして、DNA鑑定で突き詰めると犯行を認めまして、妹さんの事件も吐いたそうですよ」
雨衣は淡々と、あっさり言ってのけた。
浩二は涙ぐんで”ありがとう”とひとこと言った。
祖母も聞いていたのか、俯いて食器を並べていたが目を擦っている。
そして再び何事も無かったような顔をして、雨衣は再びパソコンのモニターを見ていた。
元々、愛想の無い奴だとは思っていたが、それにしても……、まるで機械仕掛けの人形のように、用件だけ告げて頭はもう他の事に集中している、でも、同情の振りをした愛想笑いだったり、義務的なお悔やみの言葉より、身内なら尚更、それが返って淡々としていて引き摺らなくて良いのかな?とも思ったりする。
その横へ、祖母が湯気の立つ食事を並べている。
やがて、浩二は目を赤くしながらコーヒーのお礼を言って帰って行った。
少しは気が晴れたかしら……。
掛ける言葉も見つからなかった。
店はまだ静かで、雨衣がひとり食事をしているだけだった。
私は庭でセージの花櫚な花を切って来ると、花瓶に活けようとしたところで雨衣に呼ばれた。
「何?」
「これ見て」
雨衣はパソコンのモニターを私にも見えるよう向きを変えてくれたが、どこかで見たことがあると言う程度のグラフィックと、アルファベットの羅列は、私が見ても何が何だかさっぱりわからない。
肩を竦める私を見て、ため息をつく。
「真昼と兄のDNA構造だ」
「ええーっ、勝手に何するの!あんたに何の権利があるのよ」
「見ろよ、同じだろ、つまり親子であると証明された」
淡々とそう告げる雨衣に、私は猛烈に怒りが湧いてきた。
「私が嘘をついてると思ってたのね」
「そうじゃ無い」
「……あんたって最低、私を疑っていたんだわ」
「違う、でも一応検査するのは当たり前だろ?」
「最低、信じて無かったのね、それに勝手に真昼のDNAを調べて……、でもどうやって調べたの?……」
「君が居ない間に綿棒で口内を……」
「最低!」
その時、裏から祖母が現れたので、私は口を閉じた。
私は自分が勝手に雨衣を信頼し始めていただけに、裏切られたような気がして、酷くがっかりしていた。
「月、コーヒーを雨衣に入れてあげて」
「嫌よ、花さんごめん。私は金輪際この男とは口を利かないことにしたから」
そう言うと、目を丸くした祖母を残して店から出て行った。
久し振りに私は激怒している……。





その日は珍しく、陽菜が私を食事に誘った。
そんなこんなで朝からむしゃくしゃしていた私は、気分転換に出掛けることにして、真昼を祖母にお願いした。
「新しく出来たアウトレットのショッピングモールの中に美味しいパスタのお店があるの、そこでランチしてから買い物でもしましょうよ」
買い物好きなお嬢様は嬉しそうにそう言いながら車のハンドルを握り、私は助手席に座ってレイプ犯が捕まったことを、どう陽菜に伝えようか悩んでいた。
そんな事を知らない陽菜は、さっきからひとりネイルアートの事や、芸能界のゴシップ記事の事など、どうでも良い事を一人で喋り続けていた。
「高橋守はきっと私に気があるのよ、だって、仕事にかまけて、映画だとかコンサートだとか誘って来るけど、そんな必要ある?心配なら影に隠れて見張ってるのが本当でしょう?ね?……月ちゃん?」
「え?」
「やだー、私の話し全然聞いてないのね、うわの空なんだから、何かあった?」
一瞬、こちらを見た陽菜と目が合った。
顔に笑顔は浮かんでいるものの、私の表情から何かを察知したのか、何と無く脅えたような瞳をしていた。
「何よ……?」
「あのさ……、原ゆなをレイプした犯人が捕まったらしいわ……」
陽菜はギョッとしたような顔をして私を見た。
「ほんとう?」
「ええ、半年前にも婦女暴行事件を起こして、その時のDNAが証拠になったらしいの、で、総べて自供したってわけ……」
「そう……」
「あんたが少し勇気を出したおかげで、犯人が捕まったのよ」
「それでもゆなは許してはくれないわよね」
微笑んではいたが陽菜の唇は震えていた。
「それは、これからのあんたの心がけ次第だと思うわ」
「そうかな……」
「そうよ」
私は陽菜を元気づけるように微笑んで言った。
「前を見て運転して頂戴、涙は拭いてね」
「泣いてなんかいないわ」
そう、一生懸命こらえているのか、瞬きを幾度もして涙が零れるの抑えていた。
陽菜は後ろに置いてあるバックを取ろうと手を伸ばしたが、取り損ねて車中に中身をばらまいてしまった。
「何がしたいのよ」
私はぶつぶつ言いながらも、後ろに身を乗り出して陽菜のバッグから散乱した荷物を拾う。
「ハンカチを取ろうと思ったの」
落ちていたハンカチを渡すと、目頭を押さえて涙を拭っていた。
その時、私の携帯が鳴ったが、雨衣からだと分かると電源を切った。


今は、雨衣と話す気分では無い。






車はモールの八階の駐車場で止った。
夏休みのせいか結構車は止っていて、空いてるスペースを探すのに結構時間を取られた。
そして、その頃になるとすっかり立直っていた陽菜は、いつもの高慢ちきな笑顔を取り戻して、私を誘導するように二人でエレベーターに乗り込んだ。
「お腹空いたから、先に食事にしようね」
「はいはい」
外では何故だか主導権を握りたがる陽菜に逆らう気など毛頭無い私は、後を付いて彼女のお勧めの店へと入って行く、店員が直ぐに気付いて陽菜と何やら話している。
そして案内されるまま席に向かった私達のテーブルには先客がいた。
恐ろしく私の心臓が跳ね上がる。
「元気だった?月ちゃん……」
母は幼い頃別れた時のまま、年を取ったようには見えなかった。
きっと、苦労が無いのだろうと思うと無性に腹が立つ。
「陽菜、これはどういうこと?私はこの人と食事なんてする気分じゃないんだけど?」
「お願い月ちゃん、一生のお願いだから……。」
横にいたこのテーブル付きのウェイターが、戸惑っていたので取りあえず席に着く。
「陽菜に無理言って連れて来てもらったの、ごめんなさいね」
「月ちゃん黙っててごめんね、でも、一緒に食事がしたかったのよ、ママと月ちゃんと……そろそろ和解しても良い頃じゃないかなって思ったの」
今日は裏切りの一日か?
信じていた者から、ことごとく裏切られる。
「”私達のことは一日も忘れたことは無かった”とか”あなたたちを置いていくしかなかったのよ”とか、おきまりの台詞なら聞きたく無いから」
母は微笑んではいたが、目には涙を溜めていた。


……そして、私は涙に弱い。


母に零れる涙を拭われた時には、完全に椅子から立ち上がるタイミングを計り損ねていた。
「ねね、何食べる?ここのパスタはどれも美味しいんだから」
陽菜が努めて明るく振る舞っている。
当然だ。
こんな気まずいランチにしたのはあんたなんだから……。
でも、ふと思った。
前に雨衣達とゴルフ場で食事した時も、本人は気付いているのかいないのか、一人で喋ってその場を盛り上げていたし、店で雨衣とエリカさんや妹が一緒に食事していた時も、ずっと喋りっぱなしだった。
そのお陰で、彼や彼の妹が気まずい思いなど無さそうに、楽しんで食事をしていたのを思いだした。
陽菜はみんなのクッション役で、それなりに役に立っている。
それが陽菜の良い所なんだろう、私はそんな事をぼんやり考えていた。


母は一通り私達の近況を聞いてきた。
でもそれに返答していたのは主に陽菜で、私は相づちを打つだけだった。
「じゃ、私はいつの間にかおばあちゃんになっちゃったのね」
母は感慨深げに遠くを見た。
初孫を見損ねた後悔だろうか、涙をハンカチで拭っているが、それについて”苦労”と言う運命から一抜けた母に私は同情するつもりは無い……、どんなにかれんが、祖母が苦労してきたか知っているから……。
「花さんも元気そうね、時々町で見かけるけど流石にこちらからは声を掛けづらくてね」
「花さんはママのことどう思ってるの?やっぱ怒ってるのかな?」
「あんたが我が物顔で店に来たって、花さんはいつも笑顔で迎えてくれるでしょう?ま、行儀の悪い時には注意するけど……、元々、人のことを悪く言う人じゃないの、この人が出て行ってからも一言も悪口なんて言わなかったわ、あんなに苦労して私達を育ててくれたのに……」
「そうね、私が出て行くって言った時も、”あなたには苦労掛けたわね”って、反対に言ってくれるような人だったわ……」
母は遠い過去を懐かしむように微笑み、そして遠慮がちに尋ねた。
「……お父さんから連絡は?」
「イタリア辺りに居るんじゃない?前に絵はがきが届いていたけど……気が向いたら送ってくるの、どっちにしろ私達姉妹は両親との縁が薄いのよ、その分、祖母との絆は深いと思っているけど」
「だから安心だったの……、あなたたちを手放しても花さんだったら任せられるって、でも、結局はみんなに苦労かける事になってしまったけど……」
再び目頭を押さえる母を見て私は溜息が出た、彼女だけを責めても仕方ない事を知っているから……。
「確かに私達は苦労したので、何不自由もない家庭を築いたあなたを正直恨んではいるけど、でもあなたばかりのせいではない事も分かってるつもり、父は離婚の条件に私達を引き取っておきながら、花さんに任せっきりで自分は放浪の旅に出るなんて、我が父親ながら呆れて言葉も無いわ」
私の言葉に、その日始めて母が微笑んだ。
「若い頃はそんな浮世離れした彼の言動、仕草に惹かれたものだったわ……、でもそれだけじゃ生きていけない事も結婚して始めて知ったの、けど、後悔はしてないのよ、あなた達に憎まれたとしても、こうやって目の前で大きくなった娘の姿を見ることが、どんなに幸せな事か私は知っているから」
時は少しずつだけど憎しみや恨みをと言う感情を薄れさせ、もし神様が存在していると言うのなら、未来に向けて新しい運命を用意してくれているのだろうか?……、容姿こそ過去の記憶のままの母であったが、こうやって目を赤く腫らして前にいるのを見ると、もうどうでも良くなってきた自分がいた……胸の中で凍り付いた氷河の欠片のような蟠りを、今、溶かなければ機会は二度と巡って来ないような気がしたが、かと言ってどんな言葉も浮かんでは来ず、私は助けを求めるように陽菜を見るのだった。
すると、合図を待っていたかのように陽菜がその場の空気を察して、真昼の事や私との生活など、食事の席を一生懸命盛り上げようと、どうでも良い事を大袈裟に喋り、母は穏やかに微笑みながらそれを聞いていたし、気が付けば私のお皿はすっかり空になっていて、しかも不思議な事に和やかに食事を終える事ができたのだった。
私は今まで鬱陶しいとばかり思っていた陽菜の意外な一面を発見して、彼女を否定ばかりしてきた自分を少しばかり反省するのだった。






母と別れて、私達は一階のモールで買い物をしていた。

「離れの敷物、これどう?そろそろ少し秋めいた物に変えようよ」
と言って、陽菜がピンクの花柄絨毯を指さした。
「どうって、あんたはいつまで居座る気なの?」
「え?ずっといようかな〜なんて」
と笑うので頭を小突いてやった。
「痛い〜何で殴るのよ」
「さっさと家に帰りなさいよ」
「だって月ちゃん家の方が楽しいんだもの、雨衣さんにいつも会えるし」
あ……、そう言えば雨衣の電話は何だったんだろう。
今朝の事を謝るつもりなんだろうか?
ま、良いか。
無視、無視。
私は怒っているんだから。


それから私達は洋服を数点、靴、今話題のスイーツを買い込んだ。
「もう帰るわよ、持ちきれないわ」
まだ、バッグを見ようとしていた陽菜を引っ張ってエレベーターの前までやっと来た。陽菜のクレジットカードは上限無しだ、相当両親が甘やかしているに違いない。
「あのバッグ素敵だったのに」
まだ文句を言っている。
「いったい幾つあれば気が済むのよ、私の家にあるだけでも十個はくだらないし、自宅にはもっとあるんでしょうよ、そのお金で恵まれない人達に施ししてあげたらどう?」
「笑っちゃう、服の数だけバッグがあるのは当然でしょう?同じだけの靴もね」
数週間前の陽菜に戻ったらしく、見下したように私を見ていた。
この娘の辞書に、施し、寄付、ボランティアなんて言葉は無いに違いない。
会話に疲れた頃、やっとエレベーターが上から下りてきてドアが開いた。
誰もいない中に大荷物を抱えて私達は乗り込み、駐車場の八階のボタンを押したとき、外から一人男の人が乗り込んで来た。
室内なのに帽子を目深に被り、うつむき加減で顔が見えない。
「疲れちゃった、運転は月ちゃんがしてくれる?」
「何でよ、私だって疲れてるのに」
「お願い」
猫なで声で甘えてくる。
この甘え方は確かに末っ子特有のものだ、私がかれんに睫を瞬いても”気持ち悪い”と一笑されるだろうし、第一そんな媚びを売る性格でも無い。
「まったくもう、はいはいお姫様」
そう良いながら重い荷物を持って、私は壁に背を凭れ掛けた。
エレベーターのボタンが、4、5、6と順番に点滅している。
その時である、前に背を向けて立っていた男が、なぜだか急にエレベーターのストップボタンを押した。


え?


明らかに昇降途中でエレベーターがガクンと止まった。
訳が分からず陽菜は顔を引き攣らせていたし、私達はパニックになりそうなのを必死にこらえた。
相変わらず男は私達に背を向けたままで……。


そうだ携帯!


私は男の背中を見ながら、こっそりバックから携帯を取り出そうとしたら、いきなり男が振り向いた。
「じっとしていろ、」
「あ……」


暗い鍔《つば》の下から、見覚えのある鋭い眼が私を睨んでいた。


そして、その手にはナイフが握られていたのだった……。









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